日本人の誇り、抗日の英雄・伊田助男

日本人の誇り、抗日の英雄・伊田助男

 中国東北地方東部馬家大屯(吉林省延辺朝鮮族自治州)に、伊田小学校があり、最近まで子供たちが通い授業が行われていました。伊田小学校の名称は、日本兵・伊田助男という方の名がその由来です。なぜ日本軍兵士の名が校名になったのでしょう。

伊田小学校跡記念碑

 【抗日戦争勝利80周年を記念する中国の真意は日中友好の希求にあった  王敏先生からのメールで改めて“抗日”の真意を識る】(9/14・掲載)で、“抗日”は日本に反対する「反日」と異なり、「日本帝国主義・軍国主義」に抵抗して戦うことだと明らかにしました。「日本帝国主義・軍国主義」の犠牲者である日中両国人民(国民)は、共に力を合わせ「日本帝国主義・軍国主義」に抵抗し戦うこと。これが“抗日”の意味であり、日中友好の原点だと。

 日本軍兵士・伊田助男は、まさに命を賭して“抗日”を戦った日本人のひとりだったのです。

伊田助男氏

 ここに「中国人民解放軍建軍30周年記念回顧録・星火燎原」の一節を紹介したいと思います。

 旧「満州」(中国東北地方)東部で「抗日救国遊撃軍(1千人)」の軍長を務めた李延禄氏の回顧録の以下要約です。

 1933年3月30日、3千人の日本軍が航空機と大砲の援護のもと猛烈な攻撃を仕掛けてきた。一部の部隊では弾薬を使い果たしそうになり極めて厳しい状況であった。その時、別働隊が松林でエンジンが壊されたトラックと遺書を残して死んでいる日本兵を発見した。遺書には次のようにあった。

「親愛なる遊撃隊の同志のみなさん
私はあなたがたが山あいにまいた宣伝物を読み、あなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました。あなたがたは、愛国者であり、また国際主義者でもあります。私はあなたがたにお会いし、ともに共同の敵を打倒したいと、切に思っています。しかし、私はファシストのけだものたちに取り囲まれて、あなた方のところへ行くことができません。私はみずからの命を絶つことにしました。私が運んできた十万発の弾薬は、あなたがたの軍隊に贈ります。どうかみなさん、日本ファシストをねらい撃ちしてください。私の身は死のうとも、革命の精神は生き続けます。神聖な共産主義事業の一日も早い成功を祈って。
関東軍間島輜重隊 日本共産党員
1933年3月30日 伊田助男」

 十万発の弾薬は、我々を苦境から抜け出させてくれた。3日後、遊撃隊の同志と馬家大屯の大衆は、伊田助男同志の墓前で追悼会をとりおこない馬家大屯小学校を伊田小学校と改め、中華民族の解放のために、みずからの若い命をささげたこの日本共産党員を、永久に記念した。

 “抗日戦争”の勝利は不屈の闘争と尊い犠牲の上に勝ち取られたのです。そして、伊田助男の他にも数多くの有名あるいは無名の日本人が、命をかけて侵略戦争に反対し、また、抗日戦争に参加しました。彼らこそ、日本人民(国民)の誇りです。

中国における“日本人反戦同盟”の活動の様子

 彼ら有名無名の日本人英雄の奮闘にもかかわらず、私たち日本人民(国民)は、侵略戦争を押し止めることができませんでした。この、侵略戦争を押し止めることができなかった責任を、今も私たち日本人民(国民)は背負い続けているのです。

 現在、中国を最大の脅威と位置付け自らの単独覇権維持に固執するアメリカは、右傾化により再登場を目論む日本の帝国主義・軍国主義勢力を利用して、日本を対中国戦争の最前線に押し出そうと画策しています。

 しかし、パックスアメリカーナ(アメリカ単独覇権)は既に過去のものとなっています。多極化の進む現在、中国が提唱する“人類運命共同体(ウィンウィン、共存共栄、民主的国際秩序)”が国際的支持のもと人類発展の基礎となりつつあります。

 私たち日本国民(人民)は、日本の帝国主義・軍国主義勢力の再登場を断じて許さず、無批判な対米隷従に終止符を打ち、アメリカともより対等な友好関係を再構築し、日中友好を軸に人類運命共同体に日本の平和発展の活路を見出すべきではないでしょうか。そうすることが、侵略戦争を押し止めることができなかった責任を果たすことになるでしょう。 

(伊関

国際主義戦士 伊田助男 記念碑

伊田助男墓所