中日友好人民アクション訪中報告会、孫文生誕160周年記念シンポジウム

“中日友好人民アクション”訪中報告会、孫文生誕160周年記念シンポジウムが開催された。

 10月24日に【“中日友好人民アクション”訪中報告会】、25日に【孫文生誕160周年記念シンポジウム】が中国駐大阪総領事館主催で開催された。

 【“中日友好人民アクション”訪中報告会】の様子は、DCNBネットテレビで放映された。

中日友好人民アクション訪中報告会・DCNBテレビ

 

 【孫文生誕160周年記念シンポジウム】では、2026年6月28日に中国広東省中山市で開催された“第6回海峡両岸中山フォーラム”における蘇 恒氏(台湾中華海峡経済貿易交流協会理事長)の開幕式における基調講演の記録動画が上映された。

 刮目の内容で、以下、蘇 恒氏の基調講演の文字起こし版を掲載します。ご覧ください。

蘇 恒(台湾中華海峡経済貿易交流協会理事長)

第6回海峡両岸中山フォーラムの開幕式における基調講演

2026年6月28日 中国広東省中山市

蘇 恒
(台湾中華海峡経済貿易交流協会理事長)

 1840年の中国は、どのような姿だったのでしょうか。かつて世界のGDPの3分の1を占めていたとされる大国の中国は、イギリスのわずか48隻の軍艦と1万5000人の兵力によって、その門戸をこじ開けられました。南京条約を皮切りに、次々と不平等条約を押し付けられ、領土を割譲し、賠償金を支払い、土地を租借されました。かつて誇り高かった文明は、他国に好き放題に切り刻まれる存在へと転落したのです。そして、中日甲午戦争(日清戦争)。北洋艦隊の建設には10年以上の歳月と、数千万両もの銀が費やされました。艦船は立派で、砲も最新鋭でした。しかし、甲午戦争で艦隊は壊滅しました。問題は艦船にあったのではありません。この国は、根本から腐敗していたのです。1900年、八カ国連合軍が北京に侵攻しました。1901年には、11カ国が中国に『辛丑条約』を強制しました。賠償金は銀4億5000万両。当時の中国人一人ひとりが、銀1両を負担する計算でした。当時の中国は、まるで今にも崩れそうな粗末な茅葺き小屋のようなものでした。誰もがやって来ては、ひと蹴りで倒すことができたのです。

 そんな暗黒の時代にも、民族のために道を探し求める気骨ある中国人たちがいました。孫文先生は「三民主義」という道を探し、中国共産党は「社会主義」という別の道を探しました。あの時代、異なる主義を掲げることは、敵と味方に分かれることではありませんでした。同じ暗闇の中で、それぞれ異なる松明を掲げながら、衰えた民族が再び立ち上がるための光を共に探し求めていたのです。孫文先生自身、「共産主義」は「三民主義」の良き友だと語っていました。晩年には「連ソ・連共・扶助農工(ソ連と連携し、共産党と協力し、労働者・農民を支援する)」政策を打ち出しました。それは妥協ではありませんでした。彼は、もう一つの松明の中にも希望の光を見いだしたのです。孫文先生は帝政を打倒し、共和制を樹立しました。しかし、この国が本当の意味で立ち上がる日を見ることはできませんでした。1925年3月12日、孫文先生は臨終の床で、息も絶え絶えになりながら、途切れ途切れにこうつぶやきました。「平和を、奮闘を、中国を救え」と。

 それから100年、私たちが歩んできた道は、本当に実を結んだのでしょうか。孫文先生はかつて『建国方略』の中で、壮大な青写真を描いていました。それは、16万キロの鉄道網、世界級の三大港湾、そして高原を走り、チベットヘと直結する鉄道。当時の人々は、彼のことを夢想家だと笑いました。空想にすぎない、実現不可能な計画だと言ったのです。それから100年、孫先生が構想した16万キロの鉄道網は、今や中国で16万5000キロに達しました。青蔵鉄道は、世界的な難題である永久凍土の克服を成し遂げ、開通しました。上海港、寧波舟山港、広州港は、いずれも世界の港湾トップ10に入りました。かつて彼が紙の上に描いた一本一本の線は、今や何世代もの中国人によって、この大地に刻み込まれています。それは、彼の青写真がどれほど正確だったからでもなく、何世代にもわたる苦難を背負いながら、この民族が一歩ずつ歩みを進め、孫文先生の民族復興の夢を現実のものにしてきたからです。

 では、かつて中国の門を蹴破った列強は、今、どうなっているのでしょうか。今年上半期には、30カ国の要人が中国を訪問しました。フランス、イギリス、アメリカ、ロシア、国連安全保障理事会の常任理事国5カ国のうち、4カ国の首脳が短期間のうちに相次いで北京を訪れました。アメリカ大統領は9年ぶりに中国の地を踏み、ロシア大統領にとっては25回目の訪中となりました。かつて列強が中国を分割しようとしていた時代から、今日、列強が競うように中国を訪れる時代へ。この対比は、あれこれ論証するまでもなく、その事実を並べるだけで、何より雄弁な証明となるのです。昨年、台北で開催されたフォーラムでも、同じような結論が示されました。西洋を見下すところから、民族復興へ。中国大陸は、たゆまぬ努力と実践を通じて、「三民主義」の核心を実現してきました。中国大陸は、自らの模索を通じて、新時代にふさわしい独自の道を切り開いたのです。異なる主義が、同じ民族復興という目標へとつながっていったのです。

 台湾にいる私たちはどうでしょうか。私たちは、紙幣に孫文先生の肖像を掲げています。100元の新台湾ドル紙幣の表面には、先生の肖像が描かれています。中山北路や中山南路を歩き、かつて孫文先生が滞在した梅屋敷のある逸仙公園を通り、孫文先生は、今もそれぞれの台湾人の人生の中で、私たちなりの形で生き続けています。しかし、残念なことに、今なお多くの人々が政党対立という色眼鏡を通して、この民族の革命の歴史を見ています。まるで孫文先生は、あの時代だけの人物であり、内戦のある一日だけに属する存在であるかのように。まるで「三民主義」と「社会主義」は、生まれながらに対立するものかのように。まるで一方を選べば、もう一方を否定しなければならないかのように。しかし、あの時代、異なる主義とは、それぞれが歩む道でした。そして今日、その道が実を結んだのであれば、私たちはいつまで過去の対立の枠組みにとらわれ続けるのでしょうか。もし孫先生の三民主義が、民族復興の歩みの中で実践されてきたのなら。もし、かつての対立を生んだ基盤がすでに失われているのなら。今日の私たちに必要なのは、政党やイデオロギーによる先入観を捨て、民族と人民の利益に真にかなう道とは何かを、改めて考えることではないでしょうか。

 1912年、孫文先生は中華民国臨時大総統に就任した際、次のように宣誓しました。「中国は、台湾を取り戻せなければ、この世界に立つことはできない。」先生は生涯に3度、台湾の地を訪れました。3度目の訪問では、日本の植民地当局が台湾の人々との面会を許さず、一晩だけの滞在を認めた後、すぐに台湾を離れるよう迫りました。その後、孫先生は二度とあの島の地を踏むことはありませんでした。台湾の光復を見ることも、この国が本当の意味で立ち上がる日を見ることも、そして祖国統一の日を見ることもかないませんでした。しかし、先生が成し遂げられなかったことを、後の世代が成し遂げたのです。1945年、台湾は光復を果たしました。昨年、中国大陸は法律によって、10月25日を「台湾光復記念日」に定めました。同じ時期に、台湾でも「光復節」が法定休日として復活しました。名称がどう異なろうとも、私たちが記念しているのは、同じ歴史的事実です。

 1945年、台湾は正式に光復を果たしました。孫文先生自身は、その日を目にすることができませんでした。しかし、私たち中国人一人ひとりが、先生に代わってその日を目にしたのです。では、今日、私たちはどこに立っているのでしょうか。ここ、中山市、孫文先生の故郷です。先生の生誕160周年にあたり、私たちは、この物語の出発点に戻ってきました。先生は臨終の際、「平和を、奮闘を、中国を救え」と訴えました。そして今日、私たちはここで、民族復興の道を共に考えています。これは、孫文先生が最後に残した言葉を、私たちが受け継いでいくことにほかなりません。今日、アメリカでさえ、中国大陸との協力を維持しなければならない時代です。それなのに、台湾の人々が、自分たち自身の未来のために、より良い道を模索しようとしない理由がどこにあるのでしょうか。

 両岸は、民族が衰弱していたがゆえに分断されました。そして必ず、民族復興によって統一へと向かうのです。これは誰か一人の考えではなく、歴史の必然なのです。昨年、私は台北で問いかけました。孫文先生の逝去から100年、私たちは、先生の願いを実現できたのでしょうか。そして今日、私は先生の故郷で申し上げます。先生の願いが実現する日は、今まさに近づいています。私たちの奮闘は、まだ続いています。そして今、民族の未来のために奮闘し続けている私たち一人ひとりこそが、その歩みを受け継いでいく存在なのだと、私は思います。