《山橋宏和さん(大阪城狛犬会共同代表)のスピーチ》
私が今日お話したいことは3つです。まずこの3点の概要を申し上げます。
1つ目は、この集会のテーマでもありますが、「民間の力が、日中友好の未来をひらく」ということについてです。1949年10月1日、中華人民共和国が建国されて日本と新中国との間で始まった日中友好運動は、当初から民間の力によって進められてきました。新中国が建国されるや、当時日本を占領していたアメリカは直ぐに「対共産圏輸出統制委員会(ココム)」を設立し、日本と中国の友好交流は厳しく統制されたからです。
2つ目は、日中友好運動は同時に、日本の自主独立の運動と表裏一体の運動だったということです。今もそうだと思います。日中友好運動を発展させることによってしか日本は自主独立を達成することはできないし、自主独立の日本を建設することによってしか日中友好を前進させることはできません。
3つ目は、日中友好運動は単に日本と中国の二国間の問題にとどまらず、アジアと世界の平和にとって、重要な一部分だということです。この集会のテーマでもあります「日中友好は最高の安全保障」についてです。
まず、1つ目の問題、「民間の力が、日中友好の未来をひらく」についてですが、これは一つには、今の日本政府には頼れないということがあります。日中友好どころか、南西諸島にミサイルを配備し、自衛隊基地の強靭化など、全国で戦争準備を進めています。これに対して、やはり民間の日中友好、さらにはアジアとの友好を進めることで、こうした動きを抑え込んでいかなければならないと思います。少し歴史を振り返ってみましょう。
1949年10月1日に中華人民共和国が建国されました。同じ年の5月、日中貿易促進会と日中貿易促進議員連盟という二つの団体が結成されます。まだ中華人民共和国が建国されてもいないのに、日本の政財界はこうした組織を結成して、日中友好往来が始まるのを熱望していました。1949年に新中国が建国されると、アメリカはただちに「ココム」(対共産圏輸出統制委員会)を結成し、日本はアメリカが主導する「中国包囲網」の中に組み入れられました。
1950年に始まる朝鮮戦争では日本は米軍の前線基地になります。国内では「共産主義の脅威」が喧伝され、レッドパージが始まり、「共産党員とその支持者」の公職追放ということが行われました。
こうした風圧の中で、日中友好協会が誕生します。1949年10月10日に準備会が発足し、1年後の9月30日と10月1日の二日間、第一回全国大会が開かれます。
この準備期間の間の1950年6月に朝鮮戦争が始まります。アメリカは日本を兵站基地として朝鮮侵略戦争を開始しました。そして協会が発足して一月半後の11月15日、「人民日報」配布弾圧事件が起きます。日中友好協会大阪支部の事務局を米軍が命じた大阪市警が襲撃し、「人民日報」や「世界知識」など多数を押収し、事務局長以下3人を逮捕。裁判で証言した中央本部の小沢事務局長はその場で逮捕され、中央本部を家宅捜査した際は資料部長の赤津氏を逮捕しました。逮捕された5人は米軍占領が終了するまで拘禁されました。
当時日本では、どういう宣伝がなされていたか?「中国では多くの人々が国民党のスパイの疑いで逮捕され銃殺されている。人々は「アメリカの声」のラジオ放送を聞きたがっている。」(11月16日朝日新聞一面トップ)「中国に抑留されている多数の日本人が苦しんでおり、特に婦女子は悲惨な生活を強いられている」(11月19日朝日新聞)などと言うデタラメな報道がされていました。で、こういうことは「人民日報」や中国の色々な文献を読めばデタラメだということはすぐにわかりますから、アメリカにとっては中国の真実の姿を知らせる日中友好協会の活動が極めて脅威だったと思います。
このように、中華人民共和国が建国されて始まった日中友好運動は、その始まりの最初から、アメリカに従属するのか?それとも自主独立の日本を建設するのか?その闘い抜きにはありえませんでした。日中友好運動は日本の自主独立の闘いと一体のものでした。
これは、2番目の、日中友好運動は同時に、日本の自主独立の運動と表裏一体の運動だったというテーマにつながります。
日本国民の大多数は日中友好を願っていたにもかかわらず、アメリカの言いなりの吉田政権は中国への渡航さえも認めませんでした。
この吉田内閣に大蔵大臣として入閣した石橋湛山という方がいます。かれは当時政府がGHQに支払っていた経費が国家予算の3分の1に達していたため、GHQに対して日本政府の負担を軽減するように要求しました。アメリカは国際的な信用を気にしてこれに応じ、2割削減することになりましたが、石橋湛山に対しては公職追放し、彼は国会議員の職を失うことになります。これは吉田茂が画策したと言われ、石橋は追放解除後に鳩山内閣で通商産業大臣に就任しました。1955年に商工委員会委員長だった田中角栄とともに独占禁止法の制定を行ったり、日中輸出入組合の結成を支援したりしました。
鳩山一郎首相は日ソ共同宣言を発してソ連との国交を回復しました。その後総理大臣になった石橋湛山は、自分が総理大臣になったら日中国交回復をやると明言していました。しかし彼は病気のためにわずか2か月で総理大臣の職を辞任しました。病気が快復したあとは1959年、中華人民共和国を訪問し、周恩来総理と会談し、冷戦構造を打ち破り、日本がその懸け橋となる日中米ソ平和同盟を主張したといいます。この時に共同声明を出しまして「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」と述べています。
この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれています。
この鳩山内閣の日ソ国交回復、つづく石橋内閣の日中国交回復への動き、これは他でもない、日本国内にそれを心から求める声があふれていたからだと思うんです。
1954年、李徳全女史を団長とする中国紅十字代表団が日本を訪問し、撫順戦犯管理所に抑留されている約1000名の戦犯について、いずれ釈放する方針であることと、その戦犯名簿を発表しました。日本の家族は、歓喜しました。その時、京都から大阪へ向かう50キロの沿道には代表団を歓迎しようと集まった人々が途切れることなく続いたということです。
この訪日は前年に日中友好協会が提案したものです。中国紅十字会が残留日本人の帰還事業に非常に親切に協力してくれたことへの感謝の気持ちを表すため、中国紅十字会を日本へ招待しようというものです。全国で署名運動が開始され、全国の地方議会で政府に招待を要請する決議がぞくぞくと採択されました。そして5月27日、中国紅十字会代表団の招請決議が、衆議院で満場一致で採択されたのです。
1950年代、石橋政権と言う、日中国交回復をやろうとした政権が存在していたこと、そしてその政権を生み出したのは民間の力だったということは忘れてはならない重要事項と思います。
三つ目は、日中友好は日本と中国の二国間の問題にとどまらず、アジアと世界の平和にとって、重要な一部分だということです。中国は今、一帯一路という世界規模の経済圏構想を進めています。一帯一路というのは、中国が建国された当初からの、中国の外交路線の継承発展だと思います。
1955年にインドネシアのバンドンで第一回アジアアフリカ会議というのが開かれました。戦後独立した29か国が集まって、東西冷戦ではない、新しい世界秩序を提唱しました。この時提唱されたのが平和10原則です。これは前年、中国の周恩来総理とインドのネルー首脳の首脳会談で提唱された平和5原則が下敷きになっています。一帯一路というのは、こうした平和5原則を保障する物質的な基礎を構築しようと提唱するものです。先日、羽場久美子さんが中国へ行って一帯一路の国際会議に参加されましたが、そこでこう言われたそうです。「一帯一路、そこで建設されるアジアと欧州を結ぶ鉄道網や高速道路網、これは万里の長城のように、たとえ今の中国が滅んだとしても、ずっと後の世代に残るものだ」ということです。これは、発展途上国への経済援助と言う規模ではなく、国境を越え、大陸を越え、全世界の共通のインフラ、全世界共通の財産を建設しようと言う提案です。これこそが、世界平和の物質的基礎になるものだと思います。日中友好は世界平和への第一歩だということをみなさんと共に確認出来たら幸せです。以上です。