このコラムでは上海交通大学を拠点にして研究活動をしておられる石田隆至さんのレポートを連載しています。
このコラムは「人民日報海外版日本月刊」に連載されたものを転載しています(著者および出版社の許諾済み)。
国交回復後の50年を生きなおす(4)
戦争の「後遺症」のなかで
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2023/1/23 12:09
前回取り上げた孟生保さん(83歳)は、戦争で失われた家族やその戦友たちの尊厳を取り戻すために戦後を歩み続けた。被害調査を続けるのが難しくなった2000年代には、高校生だった孫の武凌宇さん(31歳)が手伝うようになった。同世代の若者が趣味や旅行、SNSなど私生活を楽しむなか、凌宇さんは故郷を蹂躙した日本軍部隊に関する資料や情報をネット上で集め始めた。何がきっかけでそれを始めたのかを尋ねたが、抗日戦争の犠牲者の苦難を考えれば当然のことだと語るだけだ。虐殺された曾祖父は話に聴くだけの存在だが、周囲の老人たちが戦争中の話をする時の様子は小さい頃から印象強かった。直接暴行された人も間接的な被害を受けた人も、日本軍による仕打ちを語るとき、あまりにも恐れ、憎んでいた。憤慨し、泣き喚き、地団駄を踏み、大声で罵る言葉を発した。誰もが昨日の出来事のように苦しんでいた。何より祖父の生保さんの姿には、独特の苦痛が伴っていた。少し話しただけで頭を抱えて黙り込み、食事は何日も喉を通らず、悪夢にうなされた。6歳頃、曾祖父たちの最期について家族から全てを聴いた。祖父が度々家を空けているのは被害調査のためであり、その費用を作るために一家の家計が周囲に比べて苦しいことが見えてきた。90年代とはいえ砂利混じりのいちばん安い米しか食べられず、肉も滅多に口にできない幼少期だった。
次第に祖父に代わって被害調査を行うようになった。大学で歴史学を学びたかったが、就職に直結する技術を学んだ。故郷から離れた工場に就職したため、調査には費用を要した。ただ、加害者に関する具体的情報をほとんど入手できなかった祖父の調査とは違って、ネットを駆使できる時代になっていた。関連資料は国内だけでなく日本からも購入し、それを手に各地に出掛け、被害者と一緒に写真や資料を確認した(写真下)。加害/被害の事実を再構成して史実に迫ることで、被害者の心の中に数十年も巣くっていたものが和らいでいくのを傍で感じた。それは凌宇さん自身にとっても願いが一つ叶ったと感じる瞬間だった。

とはいえ、経済的な負担や人間関係に与えた代償は小さくなかった。就職後の十年、給与の大半を資料購入や調査費用に費やした。彼の母が準備していた結婚資金まで資料代に回し、家族から非難された。友人も関心が違うと離れていき、被害調査など止めた方が良いとアドバイスを受けたこともある。
被害者を訪ねると、2010年代に入っても戦争被害の「後遺症」に苦しみ、困窮している家庭が少なくないことを知った(写真下)。聴いてみると、戦争中に働き手の男性を多く失った農家ほど深刻で、子や孫が働けるようになるまでは、苦しい暮らしを長く続けた。その影響はさらに次の世代にも及んでいて、凌宇さんは自分の家庭だけの問題ではないことに気付いた。暴行を受けて心身に損傷を受けた被害者の中には、経済事情から十分治療を受けられないまま高齢に達している人々も見られた。性暴力に晒された女性被害者の中には精神が錯乱したまま戦後を生きた人もいて、彼女たちを支える家族は現在でも苦労を重ねていた。それでも、若い世代の凌宇さんが被害者を訪ねると、心と身体に残る傷にどう向き合ってきたのかを、心を開いて話してくれた。被害者たちは戦後ほとんど語ることのなかった自身の苦難を聴き取ろうとする青年を前に、僅かだが安らぎを感じているようだった。そして、加害者と日本政府に罪を認めるようにしてほしいと、若い凌宇さんに託すのも共通していた。

ある女性は戦争末期に集落全体が焼き討ちに遭い、父は日本軍に連行されて重傷を負った。そのため養女に出されたが、そこでも養父が日本軍に暴行され、亡くなった。行き場を失った女性は実家に戻ることも拒み、心身の混乱の中で戦後を生きてきた。彼女から話を聴き終わった時、凌宇さんは女性の実家と養父が経験した苦難の根源は、すべて日本軍の残虐さがもたらしたものだと告げた。彼女はいくらか安心し、長年苦しめられた心の乱れが少し収まったという。語りえぬものを語り、耳を塞ぎたくなる経験に耳を傾けることは、被害者同士で戦争の傷を癒やし、失われた自己と戦後を少しずつ取り戻す。
被害調査は多くの困難にも直面した。当時の抗日勢力が弾圧され、地域社会が日本軍に襲撃された裏側には、たいてい対日協力者の存在がある。事実を知るには彼らからも話を聴く必要があるが、その子孫は直接は知らないと生保さんや凌宇さんを追い返すことが多かった。それだけではない。幼少期に凌宇さん一家は近隣住民から日常的に嫌がらせを受けていた。表向きは凌宇さんが母子家庭だと当てつけるものだったが、実際には対日協力者の子孫による抗日勢力の子孫への報復だった。調査を始めた凌宇さんが戦争被害者に関する記録を幾つか発表するようになっていた2010年、窓ガラスが割られ自宅が放火された。部屋は全焼し、収集した資料や原稿も失った。しかし、証人になってくれる人も少なく、捜査は難しい局面を迎え、実態は解明されずに終わった。普段からこうした事態が珍しくないのは、抗日勢力と対日協力者との分断が作用していると凌宇さんは見ている。侵略戦争が生み出した分断は、今も「双方の心にトゲを残し」、地域社会の団結や婚姻関係の拡がりを阻害している。凌宇さんら被害第4世代の間にも続く地域の分断は、公正な社会の存立を破壊し続けている。
侵略戦争が破壊するのは生命や身体だけではない。日々の穏やかな暮らし、他者を思いやる心や感情、喜びと安心の源となる人間関係、地域社会の支え合いなども失わせた。社会を社会たらしめる“相互の信頼”がいったん損なわれるとその再建は困難で、分断は固定化、持続化していく。被害者たちは自分たちの努力でそれを克服し、取り戻そうとしてきた一方で、容易には抜け出せない現実も残る。こうした「後遺症」を少なくとも悪化させないために、責任主体として日本社会にできることは何か。生保さんが願ったように、二度と侵略戦争をしないという姿勢の堅持は、安心をもたらす。凌宇さんが実践したように、まず相手を信頼し、耳を傾ければ、状況に左右されない友好に繋がる。それは、日中国交回復の原点を取り戻すことに他ならない。
〔脱稿後、孟生保さんの訃報に接しました。父の写真を取り戻すという悲願は永遠の遺憾となりました。御冥福を願って本連載を捧げます。〕
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n11406.html
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国交回復後の50年を生きなおす(3)
戦争被害者は戦後をどう生きたか
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2022/12/12 12:13
国交回復によって戦争被害者とも向き合おうとすればできるようになった。そうした動きはどれくらいあっただろうか。これは無理筋な話ではない。日本社会には、原爆や空襲の被害者に対する関心や平和教育が一定程度存在してきた。他方で、80年代末以降に戦後補償裁判などで戦争被害調査が行われた僅かな例を除けば、中国での被害実態を知り、平和への誓いを日中双方で共有する情況が十分拓かれてきたとは言い難い。ましてや、戦争被害者が一人の生活者としてどのように戦後を歩んできたのかを知る――そうした責任意識はほとんど拡がりを持たなかった。国交回復50年後の被害者の「いま」を知るために、山西省繁峙県に暮らす孟生保さん(83歳)一家の戦後に耳を傾けたい。

2019年秋、省北部の地方小都市に生保さんを訪ねた。老朽化の進む集合住宅の暗い一室で、家族とともに静かに待っていた。生保さんは戦後に日本人に直接会うのは初めてで、緊張している様子だった。言葉数も少なく、小声で絞り出すように話した。家族の話では、日本人が来訪すると考えるだけで、過去の苦しみや屈辱を思い出し、眠れなかったという。1939年生まれの生保さんは、戦争末期だった幼少期に日本人から何度も暴行を受けた。2歳で腕を銃剣で刺され、6歳で頭を鉄棒で殴られた。頭部の鈍痛や腕の障害は戦後の生活や仕事に支障を来し、今も後遺症に苦しむ。傷痕を見せ、その犯罪人を探してほしいと語った時、悔し涙が溢れた。
加害者の一人は新中国の太原戦犯管理所に収容された。私たちはその戦犯に何度もインタビューしたが、生保さんを暴行した事実は語っていない。日常的に行われていた無数の暴力の一つだったのだろう。二度とこんなことが起きないようにしてほしい、と手を握りしめて発した言葉は、受けとめきれない重さがあった。傍にいた彼の妻もほとんど話さなかったが、彼女の頭にも生々しい傷痕が残るのを見せてくれた。
今年再び生保さんから話を聴く機会を得た。「刺されて死ななかった人でも、その傷は治らない」と話し出した後、「日本軍人の息子や孫はまた中国に侵略しに来ようとしているのか」と問いかけた。多くの日本人からすれば、過剰な心配だと感じられるかもしれないが、生保さんは本当に恐怖を感じている。その非対称性こそ、この50年間に埋めておくべき溝だったと思えてならない。
生保さんをより苦しめてきたのは、日本軍に虐殺された父・孟蘭芝さんのことだった。村長だった蘭芝さんは、日本軍による暴行、略奪、女性蹂躙から智慧を絞った抵抗・非協力を続け、村民から支持されていた。逆に、対日協力者の住民からは目の敵にされていた。共産党軍による抗日運動の地下拠点を支えていたため、1941年に日本軍に捕らえられた。生保さんがまだ2歳の頃である。蘭芝さんは1ヶ月以上も拷問を受けたが口を割らなかった。その凄惨さは、片眼をくりぬかれ、最後に公開処刑の場で斬首されたことを記せば十分だろう。本当の被害者とは両親の世代だと生保さんは言う。斬首した人物は、2歳の生保さんの細い腕も刺した。
処刑の直前、日本軍人がその様子を写真に撮った。蘭芝さんの妻は夫の名誉のためその写真を取り返さなければと考えた。1946年、まだ7歳だった生保さんはその写真を取り戻すよう母から聞かされた。自分にはなぜ父がいないのかと感じていた生保さんは、写真でも顔を見たいと思った。父がどのように生き、なぜ殺されなければならなかったのかを探求する半生が始まる。
まだ中学生だった1950年代前半から、当時を知る地元の人々から話を聴き始めた。人口600人の狭い村の人間関係のなかで、事実を探り当てるのは容易ではなかった。卒業後の56年に太原市の鉄路局に就職した。太原管理所に日本人戦犯が収容されていると知り、父を殺害した軍人が含まれているか知人を通じて尋ねた。加害者の一人が収容されていたが、処刑を免れたと知り、大いに不満だった。他の軍人は帰国しており、写真を探すことは難しくなったと感じた。その後の調査は、父やその戦友、地域の被害事実を知るための段階へと移った。調査のなかで遺族らが犠牲者の最後を知りたがっていることを知り、遺骨や情報を遺族に届けるようになった。
1960年代初めに父の様子を知る人物を訪ねて内モンゴルへ出掛けたのを皮切りに、中国各地を訪ね回った。戦死した従兄弟の所在を探すため、63年以降河北省各地を尋ね歩いた。98年まで5回にわたって調べたが、今も故郷の墓に戻れていない。66年に上海、68年と71年には広州にも出掛けた。尋ね人が見つからず、広州には2017年まで何度も訪れている。1979年には内モンゴルのフフホト、80年には北京にも出掛けた。その中で、父が誇るべき抵抗をしていたが故に虐殺されたことを知った。83年には山西省の公文書館にある戦犯関連史料を探す機会を得たが、写真は見つからなかった。最後の望みだっただけに消沈し、日本に連れ去られるような心境だった。
調査を繰り返していた60~70年代は、経済的にも社会的にも困難な時期だった。処刑された父の遺体を引き取るために日本軍に金品を要求され、そのためにした借金の返済は70年代まで続いた。生活を犠牲にして調査を続ける日々を周囲から嘲笑され、食糧を借りようとしても次第に協力してくれなくなった。子どもを育てる余裕もなく、娘の一人は生後すぐ病死した。職場を休んで出掛けることに上司は不満で、遅くまで残業した。収入の高い仕事に就ける身体でもなかった。
国交回復後は山西省でも友好気運が高まり、当時の日本は良いこともしたと口にする住民もいた。しかし、まだ戦争被害の後遺症を抱えている住民も多く、被害の回復要求が高まった。繁峙県にも80年代に入ると旧日本軍人が戦友の慰霊や懐古のため姿を見せるようになったが、被害者に面会に来る者はいなかった。罪を認めない人とは交流したくもなかった。70歳を過ぎると、孫の武凌宇さんが調査を手伝い、引き継ぐようになったことは次回記したい。
戦争が終わっても被害者の人生は持続的に破壊され、苦しみは戦後も続いた。無念さは遺族自身が事実を明らかにする中で晴らすしかなかった。国交回復後の日本社会が少しでも被害者の戦後に向き合えていたなら、どのような50年になっていただろうか。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n11132.html
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国交回復後の50年を生きなおす(2)
第20回党大会報告と国交回復の含意
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2022/11/25 10:42
国交回復50周年を振り返り、新たな展望を考えていく上で、手がかりとなる文書が中国で先月発表された。第20回中国共産党全国代表大会の「報告」である。日本のメディアではその一断片がセンセーショナルに取り上げられたが、実際には、中国が今後どう歩んでいくのかというビジョンを内外に示した文書である。隣国が何を考え、どこに向かおうとしているのかを知ろうとするなら、まずは虚心に読み解く必要がある。本連載との関連でいえば、中国がなぜあのような形で国交を回復したのか、そこにどんな願いが込められていたのかを再確認させてくれる。
同「報告」は、5年に1度の党大会で発表されたもので、過去5年を振り返り、次の5年の目標を提示する内容になっている。経済発展や党改革、安全保障などのテーマに注目が集まりがちだが、全体としてはそれらが突出しているわけではない。教育、民主統治、法治、文化、福祉、環境問題、一国二制度、人類運命共同体など、多岐にわたるテーマが取り上げられている。中国社会は異質だと見なされがちだが、国内の課題は実際には日本社会のそれと共通点が多い。内容を見れば、その克服策にも同型的なものが多いことが見えてくる。経験や方策をめぐって交流する方が、対立するより得られるものが多いのではないか。
このうち、国交回復以降の日中関係に関連する2点に触れておきたい。
まず、一国二制度について。1997年に香港がイギリスから中国に返還された。植民地ではなく中国領土になった以上、「一国一制度」となるのが通常だ。しかし、返還にあたってイギリス側が、高度の自治と返還前の社会・経済制度の維持を条件にした。領土の主権は中国に移っても、中国本土とは別の体制の存続を求めたのである。社会主義と資本主義は「相容れない」体制のため、香港を社会主義圏に編入させないという冷戦思考だ。米欧や日本が戦後、対共産圏封じ込めを実施したように、資本主義諸国は社会主義圏を異質なものとみなし、排除、制裁といった手段で抑圧してきた。
植民地主義の終焉どころか継続性を隠そうともしない要求だが、当時社会主義市場経済制度を実行していた中国はこの条件を受け入れた。国際金融拠点だった香港を通じて資本主義制度の効率性や科学技術の発展に学ぶ積極的な機会と捉え、紛争化せず平和的に統一することも重視した。敵対視されてきた資本主義の長所に学び、短所を社会主義制度で補うことで新たな平和発展モデルを生み出す創造的挑戦が、一国二制度だった。
近年、この取り組みを外部から破壊しようとする策動が香港や台湾で続いている。それでもなお、今回の「報告」においては、「文明間の差別を文明間の共存によって解消し」ようと、平和的統一のための一国二制度の堅持が提唱された。「われわれは最大の誠意をもって、最大の努力を尽くして平和的統一の未来を実現しようとしているが、決して武力行使の放棄を約束せず、あらゆる必要な措置をとるという選択肢を残す。その対象は外部勢力からの干渉とごく少数の『台湾独立』分裂勢力およびその分裂活動であり、決して広範な台湾同胞に向けたものではない」。
同様に考えれば、人類運命共同体や一帯一路が、周辺地域の経済的支配を図るものではなく、多様な経済・政治体制や文化、宗教を抱える周辺国との違いを残したまま、地球上の国々がいかに協同的に発展していくかを志向する共生事業であることも見えてくる。

こうした共存、協調志向の対外政策は、外国からの脅威に晒された末に、戦略的な方策として出てきたものではない。「報告」の中でも、「中国は終始一貫して『世界の平和を擁護し、共同発展を促進する』という外交政策の趣旨を堅持し」ており、その先に、「人類運命共同体の構築を推進」してきたと記された。「あくまで平和五原則を踏まえて」という文言の通り、1950年代以降一貫して、「強国が弱国を虐げ、だまし取り強奪する」ことで得られる発展ではなく、協調・対等・共生志向の「平和的発展」を追求してきた。

異なる他者や敵対者に対するこうした独自のアプローチの歴史的文脈を確認することで、中国が日中国交回復に込めた含意が浮かび上がる。戦後も戦争状態を終結させないまま、米国とともに中国封じ込めを遂行する日本という異質な他者を相手にした、共生のメッセージだったといえる。中国敵視を続けながらも賠償放棄を要求する理解し難い日本の姿勢を拒絶せず、あえて受け入れたのは、そうすることで未来に起こりうる自省的変化に期待してのことだった。戦争被害国として最大限の寛大さを先に示すことで、敵対政策の必要性、妥当性を日本の側から内破させ、新たな関係性の模索が始まる未来に賭けた。近代以降、欧米列強による侵略と巨額賠償で苦しんだ中国の経験を、日本の民衆に背負わせたくないという国際主義的相互性も作用していた。国交回復当初、中国は日本を通じて先進技術や経済管理方式に学び、改革開放を進展させ、日本は中国への事業展開を拡張するなど互恵・共生関係が一定程度形成された。一国二制度や人類運命共同体の基本的発想を先取りしていたといえる。ただ、90年代以降は新しい次元の友好・信頼関係に発展するどころか後退局面にある。
本誌はビジネス・リーダー向けの記事が多い。「共同富裕」を前面に出した中国の経済政策に不安を覚える向きもあると聞く。「報告」の中で共同富裕が中国式現代化の一つの指標として掲げられたのは確かだが、経済発展を抑制してでも社会的平等を優先しようという政策ではない。市場原理主義の行き着く先が格差拡大と環境破壊であることは、19世紀以来の根本的矛盾である。経済のグローバル化によってそれは先鋭化し、経済成長と格差解消・環境保護をどう両立させるかは、現代世界に共通する難題である。「報告」は、これを愚直に克服するための具体策で満ちている。決して「閉鎖的で硬直したかつての道」は選択肢とせず、「経済のグローバル化」を「正しい方向」として堅持すると謳われた。技術革新を環境保護に繋げ、経済成長で生まれた富の積極的な再分配によって、農村はじめ格差の是正に成果を上げている。共同富裕もまた、資本主義国で課題となっている格差拡大への対処策と基本的アイデアは変わらないといえる。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n11039.html
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国交回復後の50年を生きなおす(1)
「始まり」としての日中国交回復
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2022/10/17 16:05
1972年9月、「平和友好関係を樹立」することを目的として、日中間の国交が回復した。直後のパンダ贈呈に始まり、友好交流は活発化した。ただ、80年代には早くも歴史認識問題が生じた。現在の日中関係は、目標にしていた到達点からさらに遠い地点にある。曖昧にせず、きちんと解決すべき課題だと意識されながらも、そのまま50年が経ち、取り返しの付かない局面だけが残りつつある。この流れを断ち切るには、腰を据えて向き合おうとしてこなかった積年の課題に向き合うしかない。手がかりとして、今回の連載では、戦後一貫して戦争責任を直視してきた少数の例外者と、ほとんど日本社会の視野に入ることのなかった戦争被害者の戦後に光を当てたい。
国交回復後は日中双方で慶祝ムードに沸き立った。一方で、当時から国交回復に危うさを感じていた人々もいる。田中角栄首相が交渉中、先の戦争について「多大のご迷惑をおかけした」と述べたことに、周恩来首相が厳しい姿勢を示したことは知られている。その後、共同声明の文言は「戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた」「責任を痛感し、深く反省する」という表現となり、いったん落ち着いた。
これが言葉尻の問題ではないと見抜いていたのが、新中国から帰国した元日本人戦犯だった。東京裁判やBC級戦犯裁判では被告の大部分が自身の戦争責任を否認したのに対し、新中国で戦犯となった者たちは、犯罪行為を全面的に自供し深い反省を示していた。とはいえ、彼ら自身も、収容当初は戦犯としての自覚はなく、激しく反発していた。せいぜい当たり障りのない反省を示せば赦されるだろうと考えていた点で、田中首相と大きな違いはなかった。しかし、中国側は戦犯を人道主義的に処遇する一方、戦争犯罪の追及には厳格だった。自身の過ちを全面的に認めて罪の深刻さを自覚しなければ、再び侵略戦争に加担しかねないと考えたからである。ただ処罰するだけでなく、平和な戦後を担う市民へと全面的に更生することに意義を見出す裁判だった。戦争中の自己のあり方に何年も掛けて向き合った戦犯たちは、葛藤を重ねた末に個人としての加害責任を認めた。中国側はそれを受け入れて一人も死刑にせず、釈放した。
こうした認罪経験を経て帰国し、中国帰還者連絡会を結成して反戦平和運動を続けていた元戦犯たちは、当時の国交回復を「無原則的」だと見ていた。同会の山陰支部の主張が興味深い。
「今回の復交〔国交回復〕進展は、中国側の事情と、アジアと世界の平和のため、中国人民が過去のウラミと苦痛を押さえて、手をさし伸べた結果実現したものです。これを外側からながめて、これで復交できる…、これが日中友好の姿だと単純に認識するならば、大変な誤ちを犯すでしょう。しかもその可能性は強いのです。我々日本人は、加害者の側に立つ日中復交です。過去の反省を抜きにした復交はあり得ないはずです。そして反省に立った日中復交とは…台湾との日台条約の破棄をウヤムヤにしたものではないはずです。そして平和五原則に立った日中復交でなくてはなりません」。
本来、加害国が侵略戦争を反省し、その過ちを繰り返さないための実践を重ねていれば、もっと早く国交は回復していただろう。しかし、戦後の日本は新中国との間で戦争終結=国交回復を進めようとしないばかりか、再軍備を進め、米国と共に対中国封じ込めを展開していた。帰国戦犯はこれを形を変えた侵略戦争の継続だと捉え、中国敵視や制裁に反対する運動を続けた(写真1)。被害国が抑えがたい怨みや苦しみを制御して国交回復に期していることの重大さを受け止めるなら、同じ過ちを繰り返さないことが至上原則となると考えていた。

確かに、交渉の前提となる十分な戦争反省の準備もないまま戦争賠償の放棄に拘泥した日本側に、中国政府は満額回答を示した。これは最大限の寛大さを示したことになる。敵対する相手であっても、信頼と友好を先に投げかけるのが新中国の平和外交の特質であり、国交回復交渉もその延長上にあった。単なる対話や駆け引きではなかったからこそ、その寛大さをどう受け止め、「大変な誤ちを犯す」ことなく行動に移すかが問われていた。
ところが、1980年代に入ると教科書問題や靖国参拝問題、90年代には歴史修正主義の台頭、2000年代には「つくる会」教科書の検定合格や小泉純一郎首相の靖国参拝など、国交回復時の戦争の反省を覆す出来事が相次いだ。2010年代には国交回復時に帰属問題を棚上げしていた尖閣諸島/釣魚島が国有化された。近年の中国脅威論に基づく日米の軍備強化も、封じ込め政策の延長にあることが見えてくる。それでも中国は、日本が信頼と友好のボールを受け止めることができる相手だという敬意を捨て去っていない。
一方、加害者としての反省を堅持しなければ国交回復後も過ちを繰り返しかねないと感じていた戦犯らは、80年代の教科書問題が起きると即座に声を上げた(写真2)。90年代に侵略戦争を否認・正当化する動きが活発化すると、自らの加害体験を直接市民に語り、雑誌を発行するなどして対峙した。被害者へのまなざし、あるいは加害行為やその反省を欠いた独りよがりな戦争観や歴史観の横行は、戦時中のそれを彷彿させたからである。同じ怨みや苦痛を再び与えないための実践こそ信頼と友好を受け止めることだと考え、90歳代を過ぎた2010年頃まで語り続けた。

戦後も継続する侵略政策に抗ってきた帰国戦犯たちは、国交が回復すれば和解が実現するという表層的な平和観に懐疑的だった。朝鮮戦争やベトナム戦争で(その後の湾岸戦争やイラク戦争でも)日本が攻撃基地、後方支援拠点となったことは、侵略政策の一端を担うことだと明確に非難していた。米日の圧倒的軍事力が周辺国にとって脅威であり、発展の阻害要因であったにもかかわらず、憲法9条のある平和国家日本は侵略とは無縁だと感じられてきたのと対照的である。戦犯らは、戦前戦後の過ちを認め、それを繰り返さないための確かな平和実践の「始まり」として、国交回復の含意を消化していた。平和は平和を生み出す持続的な実践を通じてしか生まれず、それ抜きにはいつでも戦前の情況に戻ってしまう、だからこそ戦犯たちは国交回復の理念を生き直し続けたのである。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n10743.html
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「未来志向」を求めて(2)
戦後80周年、“平和主義”の現在地
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2025/5/21 09:00
未来の平和を担うのは、子どもたちや青年の世代である。彼らの戦争/平和観は未来の東アジアに直接繋がっていく。
今年4月はじめに、岐阜県瑞浪市の強制連行跡地を訪れる機会を得た。航空機の地下工場建設のため、中国と朝鮮半島から強制連行された人々が奴隷労働に従事させられた。暗い地下道で換気も悪く、ツルハシでの手掘りが危険で困難だったことが感じ取れる(写真1)。中国人330名のうち39人が死亡した苛酷な現場だった。朝鮮人は900名以上が連行されたというが詳細は判明していない。他の現場を訪れた時もそうだったが、こうした歴史遺跡を守り抜いているのは高齢の日中友好人士が多い。

写真1:地下道の跡
地下工場の真上には慰霊の念を込めた「日中不再戦の誓い」の碑が建つ。碑の下にあるベンチでは、小学生数人が遊んでいた。戦後80周年記念番組を製作している中国の取材スタッフが同行していたことから、子供たちは機材に関心を示していた。声を掛けると交流が始まった(写真2)。目の前にある不再戦の碑について聞いてみた。子供たちが知っているという戦争は、広島・長崎の原爆と沖縄戦だけだった。戦争といえば都市空襲というイメージなので、戦場は日本だと思い込んでいる。中国や朝鮮半島など国外が主戦場だったという認識はほとんどなく、「日本が敗けたの?」と驚いてさえいた。

写真2:不再戦の誓いの碑と子どもたち
私自身が同じ小学三、四年生だった頃も、平和学習といえば原爆被害が中心だった。ただ、植民地支配や虐殺の歴史などもある程度学んだ。日本が中国や朝鮮半島を侵略し、敗戦したという認識は持っていたと思う。ここで出会った子供たちが特殊だったのか、それとも、侵略加害の前史を曖昧化する日本の“平和教育”の趨勢が実際に加速しているのか。ネットや書店には日本の侵略性を否定する言説が溢れる。“謝罪を終わりにする”という「安倍談話」もほとんど問題視されなかった。「被害者意識」に根ざした“平和主義”がもはや日本社会に定着していると考えた方が自然だ。戦争を直接体験した戦中世代さえ、多くの被害者を苦しめたという深い自己反省から平和主義に転じたわけではない。戦争はもう懲り懲りだ、戦争は悲惨だからなくそうという一般論としての“平和主義”がこの国の戦後を支配してきた。
子供たちには、この下の地下道には中国や朝鮮半島から無理やり連れてこられた人が何百人もいて、殴られながら危険な作業をさせられたこと、実際に多くの人が亡くなり病気になったことを話した。ろくに服も着せず、食事さえ満足に与えなかった事実も伝えた。そして、二度とこういう過ちを繰り返さないように誓って作ったのがこの碑だと紹介した。はじめて聞く話のようで、子供たちは幾分怪訝な顔をしていた。ただ、話しているうちに彼ら自身が、二度とそういうことにならないよう平和を守ろう、仲良くしようと口にし始めた。事実を伝えればきちんと理解し、他者の苦しみを感じ取り、何をすべきか判断する力を持っている。子供たちにどのような学校教育を行うのか、市民にはどんな社会教育が必要なのか、未来はそれで大きく変わりうる。これまでの独りよがりの“平和教育”、「被害者」としての“平和国家”アイデンティティでは、隣国と未来を共有できないままである。
子供たちに語りかけたのは地元岐阜で国語教員を務める今井雅巳さんだった。今井さんは長年、郷土の戦争遺跡や体験の掘り起こし、保存に取り組んできた。強制連行や731部隊、アヘン栽培などの戦争犯罪に関与した元兵士らの聴き取りも続け、加害の側面にも向き合ってきた。岐阜大学の平和学講座ではその取り組みを学生たちに伝えてきた。テレビ取材班は地下工場を訪れる前に今井さん宅を訪ねて、平和教育と学生の反応についてインタビューした。
博物館学芸員の経験を持つ今井さんは、現物を使った平和教育を重視していた。自宅広間に竹槍、木銃、銃剣、拷問道具のほか、ヘルメットや女性が着ていた割烹着などを拡げ、中国人スタッフに一つ一つ説明しながら授業の様子を再現した(写真3)。

写真3:銃剣を手に説明する今井さん
取材に当たった20代の中国人プロデューサーは、やがて不思議そうな顔で質問した。「平和学なのに、学生に平和を生み出す方途や理論を教えるのではなく、戦争の時代の道具や使い方を教えるのはどうしてですか」。
今井さんは、学生だけでなく教員である自身ももはや直接の戦争体験がない、だからこそ必要だと力説する。「実際の武器や道具を見て、触って、戦闘とは何だったのかを自分で感じ、想像する。モノの向こうにどんな相手がいたのかにまず思いを巡らせることが必要です」。銃剣や拷問器具に触ったこともない学生たちは、当時それを誰に対して使ったのか、どのようにして殺そうとしたのかを、はじめて具体的に想像し始める。そうするなかで、「“どんな戦争”だったのかを考えるようになっていくんです」。武器を持って他国に押し入れば、そこに被害者が生まれる。被害事実を加害側が曖昧にしたり蓋をしたりするなら、過去は“歴史問題”になって次の世代に引き継がれていく。戦争の実態を知らないと、日本は既に「平和」なのになぜ平和を学び、追求する必要があるのか分からないと思い込んでしまう。そうなると、「どんな平和が必要なのかも分からないままになります」と今井さんは強調した。
“歴史問題”を取材する若いスタッフにとっても、戦争そのものははるか遠い時代の出来事と感じるのだろう。怪訝な表情を残しながら、返す言葉なく頷いていた。これは、中国の若い世代にとっても戦争/平和が抽象的なものとして捉えられがちであることを示している。戦争や戦後の混乱を直接経験した世代と現在の若い世代との間にある落差に比べて、日中の若い世代は置かれた情況にある種の共通性がある。戦争体験者がほぼいなくなった戦後80年のいま、<過去に対する運命共同体>を生きている。戦争に関する情報や意味付けが溢れ返るなか、それに自分なりに向き合うだけの身体経験がない。逆にいえば、「分からなさ」を出発点にして、事実を確かめ合いながら等身大で向き合っていける地平に立っているといえる。手探りで過去に向き合うという<現在>が、日中間あるいは東アジアで共有可能な新たな<平和主義>を拓く微かなルートになりうる。今井さんがその先駆者であることは次回に述べたい(続く)。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n16299.html
「未来志向」を求めて(1)
父の抗戦経験につながる今
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2025/4/21 09:00
戦争が終わった時点から80年も経った「今」は、当時からすれば十分に「未来」だった。「未来志向」という言葉は、戦後ほどない頃から使われてきた。未来だけを見ても、より良い未来は作り出せそうにない。
未来は、現在そして過去と繋がっている。もし昨日までの記憶をすべて無くしたら、今日をどう生きればよいか分からなくなる。周囲の人たちには昨日の記憶があるなら、自分だけが勝手な現在や未来を作るわけにもいかない。時間は連続しており、しかも隣人と共有している。
未来志向とはどうあることなのか、多様な人物や出来事に光を当てながら見出していく連載にしたい。筆者の他にも中国と日本の境界に生きる人の声も伝える。
* * *
まだ肌寒かった3月はじめの北京で趙阿萌さんに再会した。8年前に山西省太原市で、軍人だった父の戦争体験を聴かせてくれた。
この日、趙さんが話し始めたのは、ごく最近、現地視察で訪れた東京の病院についてだった。患者に安心感を与える治療環境、分かりやすい動線、華美さを排した効率的な空間に感心したという。中国の病院で何度か治療を受けた私には、やや褒めすぎにも聞こえる。ただ、彼のように、日本の優れたところを取り入れるべきと考える人たちは決して少なくない。世論調査では日中間の相互イメージが悪化していると報告されているが、私の周囲では日本への評価はきわめて高い。良くないのは、侵略の事実を否定し、戦争責任を曖昧化する姿勢ぐらいだろう。
趙さんもそうだ。彼は父の抗日戦を今年もう一度文章にしたいと語った。日本社会には学ぶべきところと、憂慮すべき側面が同居していることを肌で感じ取ったのだろう。彼の目に映った日本の現在は、過去とも未来とも繋がっている。世論調査はこの複雑さに迫れているだろうか。
趙さんは「父の足爪」について書く予定という。子どもの頃、彼の父が自分では足の爪を切れず、妻に任せているのを見た。「男のくせに自分で切らずに恥ずかしい」と父をからかった。周囲の人から聞かされた「お父さんは戦闘の英雄だ」という評判と相容れなかったからだ。事実は、父が抗日戦争のなかで足に大怪我を負い、感染症がずっと治らず、爪が分厚くなって自分では切れなかったのである。父本人はそんな話もせず、事情は知らないままだった。

趙阿萌さん(左)と筆者
体験を直接聴いたのは一度だけだった。1993年、70歳を過ぎても多忙な父から連絡があり、太原市で車を手配するよう言われた。父の指示で、戦時中に競馬場だった場所を探し回った。父はときどき車を止めて歩き出し、やがて柏の林の近くにある川の曲がり角に辿り着いた。父は「ここだ」と言って、当時の出来事を語り始めた。
1942年7月、父は日本軍の捕虜の一人としてそこに連れて来られた。道路修理のためと道をならし、穴掘りをさせられた。やがて、少し離れた林の奥から、中国人女性の罵声や呻き声が聞こえてくると、誰もが情況を察した。日本兵はすぐに彼らを銃剣で脅して縛り上げ、跪かせた。日本軍の将校が現れると縛られた八路軍の捕虜を一列に並べ、若い日本兵たちに「生きた的」として銃剣で刺すように命じた。後ろの列にいた父はたまらず、縛られた紐を力任せに引きちぎって川へ走り出した。日本兵が銃剣を構えて追ってきたが、父は彼らを蹴り飛ばし、川に飛び込んだ。夏で水量は少なかったが丸石や枝が散らばっていた。重い軍靴を履いていた日本兵は川の中を走れず、岸から追いかけた。父は常に身体を鍛えていて体力に優れ、日本兵よりも速く川底を走った。日本兵が銃剣に弾丸を装填していなかったのも幸いだった。走りながら周囲を観察した父は、遠くに村があるのが見えた。川の地形や枝で身体を隠しながら村に逃げ込んだと見せかけ、日本兵が村へ向かっている間に追跡を振り切った。逃げる途中で靴を失い、川の中を走るうちに枝や石が肉に刺さり、骨まで見えるほどになった。爪も剥がれた。
今思えば、父はどれほどの痛みに耐え、どれほどの意志力を持っていたのか。あの状況で一人で逃げ出せたのは、まさに奇跡だった。
趙さんはここまで淀みなく一気に語った。続きを紹介する余裕がないが、何度も機転を利かし「九死に一生を得る」エピソードの連続に聴き入った。
私は、彼の父がどんな語り口だったか聞いてみた。「父はとても冷静」に語り、むしろ趙さんの方が「心は平静ではなかった」という。「不屈の精神と革命の志に大きな衝撃を受け、深く教育された」。
父がこうした機会を設けたのは、戦争体験を次の世代に継承させようとする取り組みが背景にあったという。「未来志向」が奏功し、日中間に歴史問題など存在していなければ、不要だったかもしれない。趙さんは日中が手を携えて発展する「未来」に生きていたかもしれない。
むしろ、これだけ苛酷な経験をしながら父子ともに冷静に語り、個人的な怒りや恨みを発することもない。世代間の「教育」の機会としてさえ捉えている。
この感覚には既視感があった。2009年に住岡義一という元戦犯に話を聴いたことがある。住岡は山西省で従軍し、新中国の戦犯裁判で懲役11年の判決を受けた。趙さんの父が刺殺の淵に立たされた時、命令を下した将校の一人が住岡だった。裁判では、当時30代だった趙さんの父が住岡に対する告発状を提出している。日常的な虐待に対する激しい怒りに満ちた内容で、90年代の語りとは掛け離れている。

住岡義一さん(右)への聴き取り
住岡は高齢と病気のため記憶がかなり薄れていた。しかし、「有期刑判決を受けた45人の戦犯のうち、最後の一人として生きていることについてどう思うか」という質問にはしっかり答えた。「まだ反省が足りていないという意味でしょうか」。住岡は、他の帰国戦犯らとともに平和活動に取り組んだ。筆者らの訪問時は、自身の加害行為の記録を遺そうとしていた。彼自身の反省だけでなく、彼が働きかけてきた戦後日本社会の「反省」も、そのための自身の努力も「足りない」という反省のように聞こえた。
住岡も趙さん父子も、戦争体験を個人的なものではなく共同体の経験や責任として、あるいは、過去ではなく現在そして未来と繋がったものとして捉えている。8年前、住岡の「反省」を伝えた時、趙さんはただ静かに頷いていた。過去を正しく共有できれば、現在と未来を共有できる。被害と加害の間に橋を架けることができる。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n16070.html
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石田隆至さんから、「新中国の平和のあゆみ」を寄稿されましたので、掲載します。「人民日報海外版日本」に2021年5月から5回にわたって連載されたものです。
このあと1年半後の2022年12月30日、石田さんは張宏波さんと共著で「新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践」を上梓されました。20年余りにわたって日中双方の関係者から取材して見えてきた平和への実践と、その背景にある思想をリポートしています。
新中国の平和のあゆみ 第1回
100歳を迎えた元日本人戦犯はいま
石田 隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2021/5/25 12:00
今年は、新中国で日本人戦犯裁判が行われた1956年から数えて、65年目にあたる。当時もっとも若い戦犯でも30代半ばであったので、存命でも100歳前後になっていることになる。確認できる限り、1100人近くいた帰国戦犯のうち、3名が既に100歳を越え、2名がまもなく100歳を迎える。
島根県の山あいの農村に暮らす上田克義(仮名、以下同)は、今年99歳を迎えた(写真下)。この年齢になると病気や身体の不自由を抱える人も多いが、上田は数年前まで自身で車も運転していた。今でも若い訪問者を自宅に迎えて、戦争体験・戦後体験を伝えている。筆者も数年前の訪問をきっかけに手紙のやり取りを続けている(写真下)。一般に、日本の軍隊経験者の語りは、戦争の悲惨さや戦地での苦難などが中心になる。そして、抽象的に〝平和への願望〟が語られることが多い。上田が口にしている言葉は、それとはまるで異なる。昨年6月に送られてきた手紙にはこうある。

「私達は侵略軍として中国の皆様に多大な罪行を重ねました。今も私の脳裏によみがえる惨劇と中国の皆様に深い謝罪の念で胸を締め付けます」。
侵略や戦争犯罪に自ら加わったことを明確に語っている。そして、「終わったこと」としてではなく、現在の心境として謝罪を口にしている。日本の戦争体験者が具体的に語る出来事の多くが、被害経験か苦労話であるのと対照的だ。
また、平和活動に取り組む戦後世代が昨年12月に自宅を訪れた際には、次のように語っている。
「世界でも中国が大きくなった。民族が多い。今香港などいろいろな問題がある。こうなれば、中国は押してしまうでしょう。でも、日本に攻めることはない。時代は変わった。米軍の基地もいらないでしょう」「やっぱり敵対行為はもう絶対にしてはいけないと思っている。今アメリカへの思いやり資金を渡しているが、そんな時代は過ぎた」。
中国が大国化し、覇権的・膨張主義的だという世論が日本社会で再度高まっていることを意識した上での発言である。戦犯として収容されていた時期に、彼らが身を以て体験した新中国の平和政策、平和主義が現在においても持続しており、今も国際政治において有意義であることを明確に伝えようとしている。
100歳を迎えてのんびり過ごしたいという人々からは、決して聞くことのできない言葉である。戦犯に問われたとはいえ、起訴免除で釈放されて帰国してから既に65年も経っている。帰国後、長年にわたって平和活動にも取り組んできた。もう十分に反省したから、ソッとしておいてほしいと感じても不思議はない。また、その後の中国の状況も世界の情勢も目まぐるしく変貌し、改革開放で大きく発展した。平和主義や国際主義を過去のものと感じてしまう日本社会の趨勢に染まることも考えられる。ところが、上田から伝わってくるのは、現在の日中関係や日本社会の状況に無念さと一定の責任を感じながら、最後の一瞬までできるだけのことをしたいという切迫感のようなものである。
上田以外の4名の元戦犯も、程度の差はあれ、同じような現在地を生きている。彼らは新中国から帰国した戦犯で組織された平和団体(中国帰還者連絡会)で長年平和活動を行ってきた。玉村(101歳)と今川(100歳)は上田と同じ組織の支部で90代まで活躍してきた。玉村は現在もインタビューに応じている。木村(101歳)と稲田(98歳)は体調を崩しているが、稲田が自分史を出版したのは90歳の時である。

彼らが戦争の反省を終生にわたって深め続け、発信し続けてきたのはどうしてなのか。保守的な日本の政治文化にあって、こうした平和活動は小さくない反発や抵抗を引き起こすにもかかわらず、なぜ継続してきたのか。戦争経験や戦犯収容経験を次の世代に伝えようとしてきたのはどうしてなのか。
残念なことに、これだけ興味深い経験でありながら、きわめて単純化して捉えられるばかりだった。彼らが建国期の新中国で「思想改造」を経験したことから、学術研究においてもジャーナリズムにおいても、中国共産党の〝政治性〟が過度に強調されてきたのである。「日本鬼子」が数年後に自身の加害行為を涙ながらに反省して謝罪したことは、〝洗脳〟〝強制〟〝忖度〟などと外在的な〝力〟による働きかけの結果だとみなされてきた。戦犯裁判についても、法的手続きを欠いた、あらかじめ結論の決まった〝政治ショー〟〝プロパガンダ〟といった見方が支配的だった。
こうした捉え方には決定的に欠けているものがある。一つは、元戦犯自身や戦犯の教育改造や裁判準備にかかわった中国の人々の主体性を見落としている。自身の行為が醜悪な戦争犯罪であったと認めること、そうした許し難い戦争犯罪人に理性と誠意で接して更生させること、そのいずれにも、容易には表現し難い深刻な葛藤があったはずである。それを見落としてしまえば、政治的な強制性を前提にしなければ説明が付かなくなってしまうだろう。しかし、実際に訪ね歩いた元戦犯や中国側の関係者は、いずれも深い葛藤に向き合った者に特有の柔軟な感受性を有していた。
もう一つ見落とされてきたのは、建国期の新中国政府が有していた強い平和志向や理想主義である。その後の中国が社会主義「探索」の中でいくつかの失敗を重ねてきたことで、革命的理想主義や平和主義、国際主義が全否定される趨勢がある。しかし、そうした艱難辛苦を経てもなお、平和主義や国際主義が貫かれていると考えなければ、現在の中国の平和実践をうまく捉えられなくなる。このことは、上田自身が、〝中国が発展した今だからこそ平和主義がこれからも重要になる〟と語っていた通りである。
この連載では100歳を迎える元日本人戦犯や同様に建国期の中国を経験した人々の人生から、中国の平和実践を振り返ってみたい。その際、〝強制〟ではなく〝主体的な自己反省〟を経験した戦犯像、彼らの帰国後の特徴的な平和への歩み、そして〝外交上の取り引き〟や〝覇権主義〟ではなく〝平和主義・国際主義的実践〟として行われた戦犯裁判像を具体的に描きながら、私たちの「現在」を照らし出してみたい。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n7406.html
新中国の平和のあゆみ 第2回
戦犯および裁判関係者たちは葛藤にいかに立ち向かったか?
石田 隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2021/6/23 12:00
65年前、新中国での戦犯裁判を終えて帰国した人々は、加害行為の実態を伝える平和運動という形でその反省を具体化した。こうした組織的な取り組みは、東京裁判など他の戦犯裁判の被告には見られない。しかも、2010年代まで続いたその活動は、常に逆風に晒されてきた。帰国翌年に出版した手記集『三光』は、情報統制で戦場の実態を知らされなかった日本の民衆にその残虐さを知らしめ、ベストセラーとなった。しかし、右翼団体が出版社を脅迫したため再版を阻まれた。それでも、出版社と書名を変えて長く刊行を続けた。
元戦犯個人も「中共帰り」というレッテルのせいで、職探しや地域生活で差別を受けた。就職後も圧力や嫌がらせが続いた。今年100歳の今川(仮名、以下同)は、幸い公務員として復職できた。しかし、民主化からの「逆コース」が進む中、「アカ」扱いされ監視対象となった。職場で労組の責任者をしたことから「26年間の在職中に6回も転勤し」、その度に人間関係を作り直してきた。平和活動でも支部事務局など地道な取り組みを続け、メディア等の取材には近年まで応じ続けた。

101歳の玉村も同様である。帰国後、家族の相次ぐ逝去と貧困に苦しんだ。その頃自宅に公安が現れ、苦境につけ込むように、戦犯組織に関する情報と引き換えに金銭援助を申し出た。撥ね付けると職場にも公安が訪れ、会社から警戒された。それでも、地道に支部を支え、集会などで「過去の罪悪行為と、人道主義に基づいた寛大政策を直接体いっぱいに受けた体験を素直に話し聞いてもらう」活動を続けた。病気で思うように体が動かなくなった後も、今日まで活動を続けてきた。二年前には、「中国で悪いことをしたのに、こんなに長生きして申し訳ない」と穏やかに語った。
元戦犯も、これほどの圧迫や妨害が続くとは想像もしていなかった。それでも平和への歩みを止めず、自分たちで支え合うしかないと、相互に助け合いながら苦境を乗り越えた。圧力や排除を、逆に前に進む力に変えるその強靱な主体性は、彼らを監視し警戒する公安や世間をいっそう恐れさせた。戦後日本は、彼らが自ら反戦平和と困窮者同士の連帯を作り出す姿勢を市民的主体性と評価できず、「洗脳」された〝危険な集団〟とみなして遠ざけ続けた。
彼らの新中国での経験とはどのようなものだったのか?
1950年前後に拘留された日本人は、当初罪の意識もなく、戦犯扱いされて荒れ狂った。ただ、食事、居住、医療、文化活動など日常生活は驚くほど好待遇だった。看守からの暴言や暴力もなく、遊び呆けても制止されなかった。人道的な処遇の狙いが理解できないなか、朝鮮戦争で米軍が追い返されたことを知り、新中国に対する彼らの常識が揺らぎ始めた。一年以上も遊び続け、情報に飢えていたことから、戦犯自ら学習の機会を求めた。やがて階級論なども学び、収容後3年余り経つと、下級戦犯の間では「聖戦」が侵略戦争だったという批判的認識が拡がっていた。
しかし、1954年春に罪行の取り調べが始まり、個々人に供述が求められると、大きな葛藤に苦しんだ。戦争の侵略性を認識できても、個々の罪行を自供すれば処刑されると躊躇した。軽微な罪行のみ自供し、上官に責任転嫁するなど戦時中の認識にとどまった。人道的な待遇が戦犯を感化し、認罪させたという見方も多いが、それだけでは認罪に至らなかった。全面的な自供を可能にしたのは、時間を掛けた自己批判、同じ部隊や組織にいた者同士の相互批判、被害者からの告発状の閲覧など、自己の行為を客体化する取り組みだった。
被害者の存在が視野に入れば、鬼のような自身の姿も浮かび上がる。それを受け入れる葛藤や苦しさを経験してはじめて、被害者の怒りや悲しみの深淵が垣間見えた。彼らにできることは、同じ過ちを繰り返さないよう反省を平和に繋げる実践以外になかった。反戦平和への主体性はこうして生まれた。
主体性が見られたのは、戦犯たちだけではない。
戦犯管理所の中国人職員は、侵略戦争の被害者でもあった。職員になれば復讐を果たせると勇んで赴任した者もいた。しかし、中国政府は国際捕虜として人道的な処遇を命じた。戦犯に提供された食事の内容や回数は、職員のそれより遥かに豊かだった。それでも食べずに粗末に扱ったり、挑発したりする戦犯を見て、耐えられず離職する職員も続出した。食事を提供する際に蹴飛ばす者さえいた。党や政府の命令を葛藤なく実行できたわけではなかった。
人道的に処遇しても、厳格に対処しても、戦犯たちは心を閉ざし、未来への恐れや拘留生活から体調を崩す者が続出した。途方に暮れた職員たちは任務を果たすため、学習や自己点検を重ねた。それを通じて、戦犯の自尊心を傷つけるのではなく、理解して時間をかけて導いていく必要性に気付き、自身の接し方を変えていった。戦犯の苦悩を見守り、励まし続けた彼らの姿勢は、帰国後も戦犯の歩みをも支えた。

教育改造とは別に、裁判準備にあたっていた検察や司法の専門家はどうか。当時20代の検察官だった王石林は、山西省で重要戦犯の取り調べを担当していた。戦犯たちが認罪し、反省しているとはいえ、その重大かつ残忍な犯罪事実に基づけば、極刑を科すべきだと主張した。法律家として、また被害国の一員として当然の判断といえる。一方で、極刑に処しても、その犯罪の大きさに見合う罰ではないため、「寛大処理」して彼らの反省を平和に活かすというのが、周恩来総理ら党中央の見通しだった。その方針を理解できなかった王は、周総理に極刑を直接訴えた。ところが、「戦犯全員を処刑すれば満足なのか」と逆に問い返され、平和主義的な判決が有する射程をようやく理解したと回想している。
裁く側も裁かれる側も、戦争と決別する裁判への歩みの中で、自身の古い認識に向き合い、苦しみながらそれを転変させていった。そうした思想形成の中でこそ確かな主体性が育まれる。帰国戦犯は平和活動だけでなく、自身を裁いた人々や被害者との友好交流を長く続けた。これもまた、他の戦犯裁判には見られない平和的帰結である。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n7410.html
新中国の平和のあゆみ 第3回
「戦争を終わらせる」裁判から「平和を作り出す」裁判へ
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2021/7/21 12:00
今年98歳になる元戦犯の稲田積(仮名)は、ある時珍しく「そんなバカな話があるか!」と声を荒げた。〝戦犯の寛大釈放は外交取り引きとして行われた〟という趣旨の論文が発表されたと知った時のことである。対中国封じ込め政策が進むなか、新中国は日米の間に楔を打つため、戦犯釈放を外交カードにして日本との国交回復を急いだという主張は以前から存在する。ただ、外交交渉の切り札にするだけであれば、高度な人道的処遇など必要ない。ましてや、戦犯裁判やそのための罪行調査、自己反省教育などまったく不要になる。戦犯たちを平和への歩みに転轍させた決定的体験をまるごと視野の外に置くことで、外交カード論ははじめて〝リアリティ〟を持つ。

稲田以外の元戦犯も、当事者不在の〝戦略思考論〟が拡がることに苛立っていた(写真上・稲田、写真中・高橋、下・難波)。彼らが体験したのは、当時の平和主義や国際主義、人民国家の建設という理想主義的文脈に裏打ちされた戦犯政策で、それは戦略的発想を乗り越えようとするものだったからである。
戦犯たちは折に触れ「罪を認める者には光明がある」と聞かされた。これが取り引きと映るのは、当時の人民司法の文脈を見落としている。新中国になり、旧社会の法律は「人民のための法」へと全面的に作り直されていた。刑法も、階級的な犠牲者とみなせる犯罪者には処罰だけでなく、反省教育を通じた社会復帰を重視する発想で整備が進んでいた。日本人戦犯も階級的犠牲者であると捉えたからこそ、罪行調査と同時に自己学習・自己反省が進められた。侵略主義を脱した〝階級敵〟を連帯可能な「人民の友」とみなすのは、国際主義の表れでもある。
罪行供述を終え、戦犯裁判が近づいた1956年4月、法的根拠として全人代で議決されたのが「目下拘留中の日本の中国侵略戦争中における戦争犯罪者の処理についての決定」(以下、「決定」)である。前文では、「各種の犯罪行為」を行なった戦犯たちには「もともと厳重に処して然るべきところ」だが、「日本の降伏後十年来の情勢の変化」「ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展」「戦争犯罪者の大多数が(略)改悛の情を示している」ことを踏まえて、「それぞれ寛大政策に基づいて処理することを決定する」と記されていた。ただ、これに続く第一項に戦犯たちは不安を覚えた。
「一、主要でない、あるいは改俊の情が比較的良好な日本戦争犯罪者に対しては寛大に処理し、起訴を免除することができる。重大な罪行を犯した日本戦争犯罪者に対しては、それぞれの罪行および拘留期間中の態度に応じて寛大な刑を科す。」
自分は起訴を免除される側なのか、刑罰を科される側なのか。この内容をどう受け止めるべきか議論さえ始まった。実際には、1ヶ月半後に始まる裁判で45名だけが有期刑判決となり(死刑、終身刑なし)、1017名が起訴免除で釈放された。

起訴免除という法理は、他の戦犯裁判との違いを際立たせている。一般に、有罪であれば処罰を受け、無罪なら起訴せず釈放する。起訴免除とは、有罪だが寛大に処理するという判断である。赦免したり、情状を酌量するという寛大さでもない。犯罪の重大さを認定した上で、あえて寛大に処理するという屈折を孕んだ「決定」だった。これほど複雑な処理となった背景は何か?
まず、「決定」冒頭の文言に注目すると、日本人戦犯が「公然と国際法の準則と人道原則に違反」したことが指摘されている。「決定」の作成経緯に関する政策文書や判決文などを踏まえると、これは東京裁判やニュルンベルク裁判で法的根拠となった「平和に対する罪(A級)」「通例の戦争犯罪(B級)」「人道に対する罪(C級)」を指している。新中国の戦犯裁判は、法的根拠が不明確な〝政治ショー〟だったという評価も珍しくない。確かに、裁判当時、国内刑法は未交付だった。だからこそ、早い段階から東京裁判など先行裁判の法的根拠を検討し、国際戦犯裁判の枠組で実施しようとした。
その際、重要な役割を果たしたのが、東京裁判で中国代表判事を務めた梅汝璈である。1949年12月に新中国に帰国した梅は、米国主導の片面講和に傾斜する国際情勢にあって、中国を含めた全面講和による国際平和の実現にむけ、東京裁判での国際経験や資料等を外交部に提供していた。戦犯裁判の法的検討が本格化する1954年以降には、法的根拠やその整合性等について頻繁に助言している。検察団の事前研修では、先行裁判の基礎資料に学び、そこでは裁かれなかった「満州国」の植民地支配責任まで視野に入れ、限界をいかに乗り越えるかを確認しあっていた。

ここまで来れば、先の「屈折」とは何かが見えてくる。東京裁判などの法的根拠に照らしても、戦犯が有罪であることは明らかだった。検察、司法は法に基づき厳罰に処すべきとの意見が強かった。ただ、被侵略国の立場としては、先行裁判が重視していた「法の支配」の意味が次第に変質していったことは軽視できなかった。とりわけ米国の関心が、犯罪処罰による正義の回復から、帝国主義諸国に有利な形での戦後国際秩序の再編へと移っていた。帝国主義支配を脱し、人民による新しい国家を建設していた新中国にとって、帝国主義諸国が生み出した国際法体系が植民地主義を色濃く残す限界に、同時に対処する必要があった。
加えて、日本人戦犯の大部分が既に認罪し、侵略者から人民の友へと自己改造していた事実もまた、同じくらい重要だった。「法によって裁く」だけでも、「免罪して釈放する」のでもなく、罪を認めた元戦犯たちと共に、継続する帝国主義・植民地主義を脱して〝平和を作り出す裁判〟を希求した。結果的に、国際法を重視して戦争犯罪を明らかにし、かつその限界を乗り越えていくために、社会主義国として平和主義・国際主義とも両立させるという隘路で見出されたのが、有罪だが処罰しない「起訴免除」という裁きだった。
取り引きや戦略といった発想に囚われている限り、平和主義・国際主義を掲げる新中国の理念に疑心暗鬼を生じてしまう。稲田たち元戦犯は、平和主義・国際主義が外交取り引きに見えてしまう現在の世代に、侵略者だった自分たちの姿に通じる危うさを感じたのだろう。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n7415.html
新中国の平和のあゆみ 第4回
支え合う民衆の主体性を取り戻させた階級論
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2021/8/21 12:00
「日本より中国の方が居心地がいい。あぁ中国に帰りたい」。93歳になる山邉悠喜子は遠くを見ながら今も口癖のように呟く。

前回まで見てきた元戦犯以外にも、建国期の中国で「得たもの」を帰国後の日本で活かそうとする民間人がいる。
山邉は1941年に家族と共に「満洲国」の本渓に移り住み、敗戦時は17歳の女学生だった。日本支配が崩壊し、息を殺して過ごしていたある日、13歳程の優しそうな中国の少年兵が鍋を借りに来た。山邉の母はいちばん古い鍋を渡した。数日後、少年兵は綺麗に洗った鍋を返しにきた。日本軍なら返却することはまずなかったうえ、中には根菜が入っていたので二重に驚いた。貴重な食糧を受け取れないと断ったが、少年は丁寧に頭を下げて帰って行った。言葉も通じず、些細な出来事といえばそうだ。ただ、明日の見えない不安のなか、「助け合って一緒に生きよう」と励まされたような感慨を覚えた。
それからまもなく、東北民主聯軍(後の中国人民解放軍)が国共内戦に備え、負傷兵の治療ができる日本人に協力を求めているのを知った。「あの少年のいた軍隊を見に行くよ」と能天気に参加を決めた。共産党といっても何も知らず、父がなぜ反対したかも分からない軍国少女だった。
衛生部隊とはいえほとんど医療技術のない山邉のような日本人が多く、消毒液の他は医療器具も乏しかった。農村の一軒一軒が病院代わりで出来ることは僅かだったが、負傷兵に対する農民たちの看病が、家族にするように細やかだったことが印象に残った。当初は日本人に対して怒りや蔑みを投げかけてくるのではないかと身構えていたが、対応は穏やかだった。言葉は通じなかったが、時には一緒に寝ずに治療に当たる中で打ち解けていったのは、不思議な感覚だった。
内戦が激化すると四肢の切断が必要な重傷者も増えた。薬も不足し痛みさえ抑えることができず狼狽するばかりで、日本人婦長に叱咤された。婦長も経験豊かではなく、目の前の傷ついた人にできるだけの処置をしようと呼びかけていただけだった。懸命に負傷兵に向き合っているうちに、かつて敵として反目し合っていた相手だという発想が山邉たちからも、負傷した中国兵からも消えていった。処置できず一時的に痛みを和らげながらただ傍にいるしかない状況でも、負傷兵は涙ながらに感謝を述べた。それを前にすると、心の底から労りや愛情が芽生えて、「壁」は次第に薄らいでいった。
1949年1月末に北京が無血解放されると、山邉らの部隊も華北へ入った。戦争が終わって3年以上経っても黄土高原にはまだ十分な食糧が実っていない。日本の侵略の爪痕を目の当たりにした。食事をするにも農村でさえ食料がない。苦労してわずかな穀物を集めて粥を作ってもほとんどが水で、おかずは岩塩だけ。気が付くと、そのお粥を食べる様子を村の子供たちが傍で見ていた。すると、少年兵は食べかけたお椀を子供たちに差し出した。子供たちはお椀を一口ずつ回し飲みした。少年兵といっても、日本軍に親を殺され、行き場がなく軍にいる子供で、わずかに年長なだけだ。山邉も少年兵の真似をして、集まってきた子供たちにお椀を渡した。彼らはやはり半分だけ食べて、返してきた。それは「共に生きよう」という兄弟の愛情という他ないものだった。解放軍で学んだもっとも大事なことは、技術でも思想でもなく、すぐ傍にいる人をどんな相手でも自分のことのように愛するという思い、「同甘共苦」だった。侵略戦争は、民衆の日常生活の根底にあったこうした支え合いを破壊し尽くした。それを取り戻すための主体性を付与したのが階級論だった。貧窮や苦難は宿命ではなく、社会制度によって再生産されているという気付きが「人民のための社会」を渇望させた。
軍と民衆との密接な繋がりはこれに限らない。民衆はどんなに苦しい状況でも、明日の食料さえ提供して負傷兵のためのお粥を作った。軍人の8割は元農民なのでその気持ちが良く分かり、1時間でも2時間でも時間があれば軍服を脱いで畑を耕し、収穫を手伝った。夜には旧社会での苦しみを共に語り、農民に戦況を伝えて励まし合った。軍と農民が一体となって教育し合う関係だった。圧倒的に劣る装備しか持たない軍隊だったが、こうした兵を農民たちは「兄弟」と呼び、我が子のように大事にした。兵士も農民のことを「我的父母」と呼び、民衆と一体となって抵抗が行われた。軍と民が深く結び付き、「運命共同体」となったときに生まれる強みが、軍事的な不利を覆していった。
民衆に根差す姿勢は、日本人に対しても貫かれていた。彼らは日本軍に激しい怒りを感じていたはずだが、山邉らに「お前達は侵略者だ」と糾弾する場面は一度もなかった。むしろ、苦境にあって持てるものをすべて出し切る日々の中で、労り合って過ごした。これほど劣勢でも勝利を確信する朗らかさはどこから出てくるのか。それに惹き付けられ、当初は3ヶ月という話だったが、気が付くと解放軍の兵士たちと南方の広州まで転戦し、共和国の建国を共に祝った。

前列左が解放軍での山邉
最終的に1953年まで建国の意欲に溢れる人民と一緒に過ごした。建国後、一つだけ寂しかったことがある。「戦友」として対等だった関係が急に「外国友人」として扱われ、遠い関係になった気がした。解放軍は、軍幹部と前線の兵士が対等であることが何よりの特徴だ。そこには言葉にし難い居心地の良さがあり、家族のような温かさ(「一家人」)を湛えていた。その輪の中にずっと居続けたいと感じていたことを、「外国友人」扱いになってはじめて自覚した。誰をも犠牲にせず、一人一人を大切にすることが、回り道のように見えて実は社会全体を豊かにしていく。そうした階級論的実践が、人間に安心感と尊厳をも与えることを身体で感じ取っていたのである。
いまグローバル化が進む世界各国で経済格差が広がる。経済発展が進む中国でも同じだが、官民を挙げてその解消に取り組み、絶対的貧困がほぼ解消していることは知られていない。山邉の眼には、それは特別なことではない。絶望的に見えた階級格差を人民同士が一人も洩らさず支え合う社会に転換することで克服しようとした国家建設が、今も続いていると映る。温かく居心地の良い社会関係を日本でも実現することが、帰国した山邉にとっての平和実践となった。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n7419.html
新中国の平和のあゆみ 第5回
「家族」のように思いやる日中関係を目指して
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2021/9/20 12:00
山邉悠喜子が乳児を抱えて夫とともに帰国したのは、敗戦から8年後の1953年だった。生活基盤はなかったが、「これさえあれば生きていける」と思える「ただ一つの宝」があった。人民解放軍で得た「人民こそ国家の主人公」「為人民服務」という民主主義の精神がそれである。どんな相手とも家族のように幸せも悲しみも分かち合い、大切にする――そうすれば日本でも、戦前とは異なる居心地の良い平和な社会を作り出せると考えていた。
民主化の進む日本なら、新中国と同様に職場や地域での男女平等は当然だと思っていたが、「子持ちの女性には、簡単に仕事は見つからな」かった。解放軍で同志だった夫やその家族からも女性蔑視が感じられ、「旧社会から脱却していない日本」に苦しんだ。定住先近くには米軍基地があり、我が物顔で君臨していた。敗戦国の悲哀というより、「自国の尊厳を忘れて迎合」していると映った。帝国主義に勝利し、誇らかに民主国家建設を進める中国との落差を感じた。解放軍からの帰国者と共に行動をと感じても、生活に余裕がなく集まる機会さえ僅か。米国と共に共産圏封じ込めを図る日本政府に対して「怒りながらも座視傍観している自分に憤りを覚えた。また私はあの時代と同じ統治者の側にあって傍観しているのか?では私に何が出来る?」自分を特権的な位置に置かず、再び過ちを繰り返しかねない日本社会の一員だと反省的に捉えるのも、解放軍で学んだ姿勢だ。中国に帰って学びたいと思うようになるのに時間は掛からなかった。
新中国からの帰国者には70年代でも警察の監視が続き、組織活動も難しかった。山邉は50歳で退職し、「年来の望み、中国へ過去を知る為の旅に出た」。転機となったのは、80年代半ばに日本語教師をしていた長春で見た壁新聞と市民の反応だった。731部隊での残虐な人体実験を題材にした森村誠一『悪魔の飽食』の記事に、黒山の人だかり。解放軍時代にその悪業を「小耳に挟んだ」ものの、同書を「事実の記録としては捉えられ」ず、「戦時中の怪奇小説ではないか」「幾ら事実でも日本人がそこまでやるか?多分に中国側被害者の思い過ごしではないか?」と感じた。しかし、周囲の市民は、皆一様に「聞いたことがある、あのときの日本人ならやりかねない」と話していた。自分だけが半信半疑だったが、頭から離れなくなった。解放軍時代に垣間見た侵略の爪痕や被害民衆の苦悩に迫ることが日中関係に不可欠だと直観していたのに、それを直視できない自分に苛立ちを感じたからである。

被害者の声にじっと耳を傾ける山邉(左から3人目)
翌年に帰国すると、森村の著作を貪り読んだ。そこに描かれた被害者は、抗日戦を戦った解放軍の戦友そのものだった。加害の歴史や民衆の苦悩をまったく分かっていなかったと気付き、根本から学び直そうと、731部隊跡地からほど近い黒龍江大学に63歳で入学した。中国語の勉強の傍ら同部隊罪証陳列館へ通い、当時の韓暁館長に同行して被害の実態調査に加わった。出会った被害者遺族は731部隊に連行された家族の消息を90年代でも必死に探し、「一日千秋の思いで帰りを待って」いた。彼らにとって戦争は終わっていなかったことに気付かずにいた自らを恥じ、遺族と共に公文書館を訪ねて証拠史料を探し歩いた。同部隊に抗日戦士を連行した元日本人戦犯による遺族への謝罪にも同行した。

731部隊のの被害者に謝罪した元戦犯・三尾豊(左)と共に
同じ頃、東北三省の歴史研究者による戦跡調査にも参加。なかでも遺棄毒ガス弾の被害は深刻で、「一生完治は望めない」との絶望から自殺に追い込まれ、介護する家族の人生も破滅させた。「侵略戦争の犯罪の底知れぬ深さに震え」、幸せなはずの日常を奪われた人に何ができるか考えた。

1992年に東北三省での戦跡調査に参加(前列中央中腰)
それ以降の山邉の歩みは一気呵成だ。1993年には日本各地で30万人の見学者を集めた「731部隊展」の準備に携わる。95年からは731部隊や毒ガス弾の被害者を原告とした戦後補償裁判を支援した。部隊跡地の世界遺産申請では、単に保存するだけでなく「日本から興味を持つ学生を集め、日中の若い研究者を育成し、永遠にこの地を反省と平和の砦に」する構想を提起した。2000年からは中国東北部など侵略戦争の爪跡を巡るスタディツアーを仲間と立ち上げ、日本の市民が被害証言に耳を傾ける機会を作った。長い間探し続けた同部隊の証拠史料が発見されると、監修を担当して2001年に出版した。被害者の苦しみを自分の「家族」のそれと受け止めた行動は、民間人にできる戦争責任と平和構築の実践でもあった。
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戦後の中国各地で侵略戦争の痕跡や被害者の苦悩を垣間見、対等で温かな建国期の社会関係に平和への希望を見出した山邉でさえ、〝日本人はそこまで悪いことをしない〟という独りよがりな民族観に囚われていた。認めたくない加害の実像が真に迫ってきたのは、目の前の人の苦しみに「家族」として向き合えた時だった。「知っているようで、全く知らなかったのだと驚いた」。〝相互理解〟〝ナショナリズムの克服〟は、人々の苦しみや悲しみを自分のそれとして受け止めることから始まる。
これは、連載の前半で見てきた日本人戦犯の経験に重なる。収容直後の戦犯も、侵略戦争の中で蛮行を犯した事実を直視できないほど、徹底して主体性が奪われていた。だからこそ、戦犯管理所で尊厳を重んじた扱いを受けると、封じ込めていた人間性が刺激され、共に生きようという信頼のメッセージとして受け止めた。それでも罪を認めるのは苦しい経験だったが、被害者の憎しみや悲しみを感じ取れた時、葛藤を乗り越える支えとなった。山邉は解放軍での分け隔てない思いやりに包まれ、後に被害者の苦悩と平和への願いに自ら触れて、不可視だった現実に気付けた。彼らは、戦犯あるいは加害国の一員としてではなく、「家族」として扱われたのである。
現在の日本社会でも加害認識が薄れ、それを否認する言説が大手を振っている。侵略かどうかにさえ曖昧なのは、建国期を体験した日本人の当初の姿と重なる。1972年の国交回復時や90年代以降の遺棄毒ガス弾の処理過程には、怨嗟に根差した平和への希求が込められている。日本社会はそれを「家族」として受け止められているだろうか。
(本連載は「山西抗日戦争文献捜集整理与研究(19KZD002)」の成果の一部である。)
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n7425.html
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山橋先生、伊関先生
2025年2月21日
こんにちは、石田です。 お世話になっております。 主に英語で世界に発信する「中国日報 China Daily」というメディアからコラムの寄稿依頼がありました。今年は新安保条約成立65周年にあたることから、両先生の長年の労働運動に基盤を持つ「日中友好こそ最高の安全保障」という御主張を是非紹介したいと考えてまとめました。お名前が出たのは山橋先生だけですが、編集部は日本の現状における狛犬会の先生方の運動の貴重さに関心を持ってくれました。
以下、英語版と中国語版のリンクをお送りします(中国語の方のリンクはとんでもなく長いのですが、そのままクリックして下さい)。日本語の原文は添付ファイルに付けました。
これからも、先生方の取り組みに学び、平和のために発信していきたいと思っております。 今後ともよろしくお願いします。
【英語版】⬅ここをクリック
【中国語版】⬅ここをクリック
石田隆至
⽇⽶安全保障条約から平和と友好による安全保障へ
⽇本社会には、戦争を放棄した「平和国家」という⾃負が根強く存在する。他⽅で、周辺国には⽇本に対する軍事的警戒感が消えることなく続いている。侵略戦争の反省を否定する政治家が後を絶たないことも⼀因だが、世界⼀の軍事⼒を有する⽶国との間に安全保障条約を締結していることも軽視できない。世界有数の「軍事⼒」を備える⾃衛隊がありながら、近年、憲法の⻭⽌めを無効化する軍事⼒の強化策を次々に強⾏している。⽇本の世論も増税に繋がる軍事費増強には反対の声が強いものの、⽇本が「平和国家」であり、周辺国が膨脹主義であるという世界観を共有しているため、積極的な反対の動きは乏しい。
⽶国との新⽇⽶安全保障条約が調印された 1960 年から今⽉で 65 年⽬を迎えた。旧安全保障条約の締結時(1951 年 4 ⽉)はまだ連合国による占領期で、吉⽥茂⾸相主導で国⺠的⽀持を⽋くなかで締結された。まだ戦争の傷痕が⽣々しく、冷戦が激化するなか“再び戦争に巻き込まれたくない”という感情から、1960 年の新安保条約への改訂時には、国⺠的な安保反対運動が起きた。反対を押し切って調印するには岸信介⾸相が辞職を引き換えにしなければならないほどだった。この時期には「平和国家」であることと⽇⽶安保条約は両⽴しないという戦後観が明確にあった。
65 年後の今はどうだろうか。かつて慎重に忌避されていた「⽇⽶同盟」という⾔葉が躊躇いなく使われるようになった。軍事同盟を想起させる表現を使っても、「平和国家」のアイデンティティに⽭盾を感じさせなくなった。先の侵略戦争でも、⽇本の軍事⼒は「防衛」や「解放」の名⽬で⾏使されたことを考えれば、周辺国が帝国⽇本の再来を危惧するのは的外れとはいえない。
この危機的な情況を⽣んだのは、「⽇⽶同盟」以外に⽇本の安全保障を確保する体制がイメージできていないことが⼤きい。65 年前には、保守派の間でも、⽇⽶安保体制を利⽤して将来的に対⽶従属を脱し、⽇本の⾃主外交を展開すればよいという便宜論が⾒られた。現在は左も右も「⽇⽶同盟が基軸」と⼤⾒得を切って宣⾔する時代になっている。それは、⾃国の安全保障は他国を圧倒する軍事⼒によって実現できるという古典的な抑⽌論に裏打ちされている。ここでも戦後⽇本は「平和国家」に⽣まれ変わったというより、戦前の軍国主義国家との近接性、連続性を感じさせる。
近年では、中国の「脅威」を⼝実に集団的⾃衛権の⾏使を容認し、軍事費の⻭⽌めを外すにとどまらず、敵基地先制攻撃さえ可能にしたが、実際には中国の軍事費の伸びはその経済成⻑に⾒合う範囲にとどまっている。⽇本もまた、⾼度成⻑期に「防衛費」の額⾯が⼤幅に増えたのと同じである。むしろ、⽇本の近年の軍備費倍増こそ、30 年以上も経済停滞が続く現状に釣り合わない軍事強国化路線となっている。少⼦⾼齢化が進み、経済のマイナス成⻑で平均所得さえ下落するなか、⺠衆は既に税や社会保障の重い負担に苦しんでいる。幻の「脅威」に対して⼀⽅的に⽇⽶軍事同盟を強化しても、⺠⽣福祉を弱体化させ、周辺国の不安を煽るばかりである。
抑⽌⼒ではない別のアプローチによる安全保障の可能性はないのか。政府が「平和国家」に逆⾏するなら、⺠間の草の根のレベルから平和国家を⾃ら作り出し、被侵略国との和解、友好を⽣み出そうという⺠間外交が、戦後早い時期に⽣まれていたことを想起したい。近年の⽇中友好運動は、担い⼿の⾼齢化や社会全体の右傾化の影響を受けて縮⼩し、萎縮さえしているのは確かだ。それでも、⺠衆⾃⾝がオルタナティブな平和を作り出そうと地道な取り組みを続ける⼈々もいる。その⼀⼈に、⼤阪で労働運動の最前線に⽴ち続ける⼭橋宏和⽒がいる。⼭橋⽒は「⽇中友好は最⾼の安全保障」だと主張する。労働運動から⽇中友好運動への連関性は⾒えにくいかもしれない。労働者の主体性を搾取し抑圧する勢⼒に対峙してきた同⽒は、その敵対⼿が共産圏を敵視し、中国との友好を阻害し続ける側でもある現実に直⾯した。「平和国家」の名に反する軍備拡張を推進しなければ、⽇本の⼤多数を占める労働者の⼈間らしい暮らしが実現する余地が⼗分に⽣まれる。しかも⽇⽶安保体制の⽭先は、主に幻の「脅威」である中国に向けられている。だからこそ、⺠衆や労働者の連帯が国境を越えた中国⼈⺠との連帯へと連なり、草の根から⽇中友好を先取りすることで、軍事的な⽇⽶安保体制を必要とする情況そのものを打ち消してしまうおうとしている。「⽇中友好は最⾼の安全保障」というスローガンは軍事的な次元にとどまらず、⼈々の主体性、独⽴性を焦点とする「⼈間の安全保障」にこそ本質を⾒出した先駆的な実践だった。
このような問題提起をすることは、政治的⽴場を越えて中国「脅威」論が渦巻く現在の⽇本社会では、空想論あるいは⾮現実的だとして⾮難さえ集めるだろう。しかし、“⽇中友好による安全保障”は、⽇中間の戦後処理を国家間の平和的共存に発展させようとした⽇中平和友好条約の精神そのものである。1970 年代の⽇本と中国は、侵略の過去を友好の未来に置き換えるという平和的な“知”を共有していたのである。この条約を基礎にすれば、⽇本の⺠衆に負担を強いる軍事⼒の強化は必要なく、中国はじめ周辺国にも歓迎される。「平和国家」のアイデンティティも葛藤なく維持でき、「防衛⼒」という名⽬での⾃衛隊の存在も⼀定程度は許容されるだろう。その延⻑で、⼀帯⼀路や BRICS に加われば、完全に⾏き詰まった⽇本経済の浮上のチャンスにもなりうる。平和と友好こそ現実的な安全保障なのである。
・・・・山橋のコメント 私たち大阪城狛犬会の活動をご紹介くださりありがとうございます。ただ「日中友好は最高の安全保障」という言葉は私たちの発明品ではありません。中国との交流にたずさわっている方の会話の中で自然に出てきた言葉です。中国と交流経験のあるほとんどの人は、中国ほど平和的な国はないと感じていると思います。 世界で一番経済発展を続けている中国にしてみれば、世界全体が大切な友人でありお客さんです。友人やお客さんと戦争をしていたのでは自国の産業そのものを破壊することになります。世界全体が平和で豊かになることが、自国の利益にもつながるというのが中国の考え方です。これは非常に理にかなった考え方だと思います。 そんな国に対して何で日本は身構えているのでしょう? 本当に不思議なことです。 今回オープンした「日中友好の広場」は、日本のどこかで日中友好交流を実践されている方たちや、「中国が大好き」という方たちが、交差しつながりあうことができる「公共の広場」になることをめざします。 それと私が「⼤阪で労働運動の最前線に⽴ち続ける」というのは全くの事実誤認です。本当に最前線で奮闘している団体や個人の方々に対して申し訳ないです。以上です。(2025年3月11日)