コラム
このコラムでは上海交通大学を拠点にして研究活動をしておられる石田隆至さんのレポートを連載しています。
このコラムは「人民日報海外版日本月刊」(URL https://peoplemonthly.jp/n16070.html )に連載されたものを転載しています(著者および出版社の許諾済み)。今回お届けする⦅「未来志向」を求めて》シリーズとともに、これまで連載された残り20回分を毎週1回アップしていきます。ご期待ください。
「未来志向」を求めて(1)
父の抗戦経験につながる今
石田隆至 上海交通大学副研究員
人民日報海外版日本月刊 2025/4/21 09:00
戦争が終わった時点から80年も経った「今」は、当時からすれば十分に「未来」だった。「未来志向」という言葉は、戦後ほどない頃から使われてきた。未来だけを見ても、より良い未来は作り出せそうにない。
未来は、現在そして過去と繋がっている。もし昨日までの記憶をすべて無くしたら、今日をどう生きればよいか分からなくなる。周囲の人たちには昨日の記憶があるなら、自分だけが勝手な現在や未来を作るわけにもいかない。時間は連続しており、しかも隣人と共有している。
未来志向とはどうあることなのか、多様な人物や出来事に光を当てながら見出していく連載にしたい。筆者の他にも中国と日本の境界に生きる人の声も伝える。
* * *
まだ肌寒かった3月はじめの北京で趙阿萌さんに再会した。8年前に山西省太原市で、軍人だった父の戦争体験を聴かせてくれた。
この日、趙さんが話し始めたのは、ごく最近、現地視察で訪れた東京の病院についてだった。患者に安心感を与える治療環境、分かりやすい動線、華美さを排した効率的な空間に感心したという。中国の病院で何度か治療を受けた私には、やや褒めすぎにも聞こえる。ただ、彼のように、日本の優れたところを取り入れるべきと考える人たちは決して少なくない。世論調査では日中間の相互イメージが悪化していると報告されているが、私の周囲では日本への評価はきわめて高い。良くないのは、侵略の事実を否定し、戦争責任を曖昧化する姿勢ぐらいだろう。
趙さんもそうだ。彼は父の抗日戦を今年もう一度文章にしたいと語った。日本社会には学ぶべきところと、憂慮すべき側面が同居していることを肌で感じ取ったのだろう。彼の目に映った日本の現在は、過去とも未来とも繋がっている。世論調査はこの複雑さに迫れているだろうか。
趙さんは「父の足爪」について書く予定という。子どもの頃、彼の父が自分では足の爪を切れず、妻に任せているのを見た。「男のくせに自分で切らずに恥ずかしい」と父をからかった。周囲の人から聞かされた「お父さんは戦闘の英雄だ」という評判と相容れなかったからだ。事実は、父が抗日戦争のなかで足に大怪我を負い、感染症がずっと治らず、爪が分厚くなって自分では切れなかったのである。父本人はそんな話もせず、事情は知らないままだった。

趙阿萌さん(左)と筆者
体験を直接聴いたのは一度だけだった。1993年、70歳を過ぎても多忙な父から連絡があり、太原市で車を手配するよう言われた。父の指示で、戦時中に競馬場だった場所を探し回った。父はときどき車を止めて歩き出し、やがて柏の林の近くにある川の曲がり角に辿り着いた。父は「ここだ」と言って、当時の出来事を語り始めた。
1942年7月、父は日本軍の捕虜の一人としてそこに連れて来られた。道路修理のためと道をならし、穴掘りをさせられた。やがて、少し離れた林の奥から、中国人女性の罵声や呻き声が聞こえてくると、誰もが情況を察した。日本兵はすぐに彼らを銃剣で脅して縛り上げ、跪かせた。日本軍の将校が現れると縛られた八路軍の捕虜を一列に並べ、若い日本兵たちに「生きた的」として銃剣で刺すように命じた。後ろの列にいた父はたまらず、縛られた紐を力任せに引きちぎって川へ走り出した。日本兵が銃剣を構えて追ってきたが、父は彼らを蹴り飛ばし、川に飛び込んだ。夏で水量は少なかったが丸石や枝が散らばっていた。重い軍靴を履いていた日本兵は川の中を走れず、岸から追いかけた。父は常に身体を鍛えていて体力に優れ、日本兵よりも速く川底を走った。日本兵が銃剣に弾丸を装填していなかったのも幸いだった。走りながら周囲を観察した父は、遠くに村があるのが見えた。川の地形や枝で身体を隠しながら村に逃げ込んだと見せかけ、日本兵が村へ向かっている間に追跡を振り切った。逃げる途中で靴を失い、川の中を走るうちに枝や石が肉に刺さり、骨まで見えるほどになった。爪も剥がれた。
今思えば、父はどれほどの痛みに耐え、どれほどの意志力を持っていたのか。あの状況で一人で逃げ出せたのは、まさに奇跡だった。
趙さんはここまで淀みなく一気に語った。続きを紹介する余裕がないが、何度も機転を利かし「九死に一生を得る」エピソードの連続に聴き入った。
私は、彼の父がどんな語り口だったか聞いてみた。「父はとても冷静」に語り、むしろ趙さんの方が「心は平静ではなかった」という。「不屈の精神と革命の志に大きな衝撃を受け、深く教育された」。
父がこうした機会を設けたのは、戦争体験を次の世代に継承させようとする取り組みが背景にあったという。「未来志向」が奏功し、日中間に歴史問題など存在していなければ、不要だったかもしれない。趙さんは日中が手を携えて発展する「未来」に生きていたかもしれない。
むしろ、これだけ苛酷な経験をしながら父子ともに冷静に語り、個人的な怒りや恨みを発することもない。世代間の「教育」の機会としてさえ捉えている。
この感覚には既視感があった。2009年に住岡義一という元戦犯に話を聴いたことがある。住岡は山西省で従軍し、新中国の戦犯裁判で懲役11年の判決を受けた。趙さんの父が刺殺の淵に立たされた時、命令を下した将校の一人が住岡だった。裁判では、当時30代だった趙さんの父が住岡に対する告発状を提出している。日常的な虐待に対する激しい怒りに満ちた内容で、90年代の語りとは掛け離れている。

住岡義一さん(右)への聴き取り
住岡は高齢と病気のため記憶がかなり薄れていた。しかし、「有期刑判決を受けた45人の戦犯のうち、最後の一人として生きていることについてどう思うか」という質問にはしっかり答えた。「まだ反省が足りていないという意味でしょうか」。住岡は、他の帰国戦犯らとともに平和活動に取り組んだ。筆者らの訪問時は、自身の加害行為の記録を遺そうとしていた。彼自身の反省だけでなく、彼が働きかけてきた戦後日本社会の「反省」も、そのための自身の努力も「足りない」という反省のように聞こえた。
住岡も趙さん父子も、戦争体験を個人的なものではなく共同体の経験や責任として、あるいは、過去ではなく現在そして未来と繋がったものとして捉えている。8年前、住岡の「反省」を伝えた時、趙さんはただ静かに頷いていた。過去を正しく共有できれば、現在と未来を共有できる。被害と加害の間に橋を架けることができる。
人民日報海外版日本月刊より転載
https://peoplemonthly.jp/n16070.html
ーーー*---------------------ーーー*---
石田隆至さんから、「新中国の平和のあゆみ」を寄稿されましたので、掲載します。「人民日報海外版日本」に2021年5月から3回にわたって連載されたものです。
このあと1年半後の2022年12月30日、石田さんは張宏波さんと共著で「新中国の戦犯裁判と帰国後の平和実践」を上梓されました。20年余りにわたって日中双方の関係者から取材して見えてきた平和への実践と、その背景にある思想をリポートしています。
ーーー*---------------------ーーー*---
山橋先生、伊関先生
2025年2月21日
こんにちは、石田です。 お世話になっております。 主に英語で世界に発信する「中国日報 China Daily」というメディアからコラムの寄稿依頼がありました。今年は新安保条約成立65周年にあたることから、両先生の長年の労働運動に基盤を持つ「日中友好こそ最高の安全保障」という御主張を是非紹介したいと考えてまとめました。お名前が出たのは山橋先生だけですが、編集部は日本の現状における狛犬会の先生方の運動の貴重さに関心を持ってくれました。
以下、英語版と中国語版のリンクをお送りします(中国語の方のリンクはとんでもなく長いのですが、そのままクリックして下さい)。日本語の原文は添付ファイルに付けました。
これからも、先生方の取り組みに学び、平和のために発信していきたいと思っております。 今後ともよろしくお願いします。
【英語版】⬅ここをクリック
【中国語版】⬅ここをクリック
石田隆至
⽇⽶安全保障条約から平和と友好による安全保障へ
⽇本社会には、戦争を放棄した「平和国家」という⾃負が根強く存在する。他⽅で、周辺国には⽇本に対する軍事的警戒感が消えることなく続いている。侵略戦争の反省を否定する政治家が後を絶たないことも⼀因だが、世界⼀の軍事⼒を有する⽶国との間に安全保障条約を締結していることも軽視できない。世界有数の「軍事⼒」を備える⾃衛隊がありながら、近年、憲法の⻭⽌めを無効化する軍事⼒の強化策を次々に強⾏している。⽇本の世論も増税に繋がる軍事費増強には反対の声が強いものの、⽇本が「平和国家」であり、周辺国が膨脹主義であるという世界観を共有しているため、積極的な反対の動きは乏しい。
⽶国との新⽇⽶安全保障条約が調印された 1960 年から今⽉で 65 年⽬を迎えた。旧安全保障条約の締結時(1951 年 4 ⽉)はまだ連合国による占領期で、吉⽥茂⾸相主導で国⺠的⽀持を⽋くなかで締結された。まだ戦争の傷痕が⽣々しく、冷戦が激化するなか“再び戦争に巻き込まれたくない”という感情から、1960 年の新安保条約への改訂時には、国⺠的な安保反対運動が起きた。反対を押し切って調印するには岸信介⾸相が辞職を引き換えにしなければならないほどだった。この時期には「平和国家」であることと⽇⽶安保条約は両⽴しないという戦後観が明確にあった。
65 年後の今はどうだろうか。かつて慎重に忌避されていた「⽇⽶同盟」という⾔葉が躊躇いなく使われるようになった。軍事同盟を想起させる表現を使っても、「平和国家」のアイデンティティに⽭盾を感じさせなくなった。先の侵略戦争でも、⽇本の軍事⼒は「防衛」や「解放」の名⽬で⾏使されたことを考えれば、周辺国が帝国⽇本の再来を危惧するのは的外れとはいえない。
この危機的な情況を⽣んだのは、「⽇⽶同盟」以外に⽇本の安全保障を確保する体制がイメージできていないことが⼤きい。65 年前には、保守派の間でも、⽇⽶安保体制を利⽤して将来的に対⽶従属を脱し、⽇本の⾃主外交を展開すればよいという便宜論が⾒られた。現在は左も右も「⽇⽶同盟が基軸」と⼤⾒得を切って宣⾔する時代になっている。それは、⾃国の安全保障は他国を圧倒する軍事⼒によって実現できるという古典的な抑⽌論に裏打ちされている。ここでも戦後⽇本は「平和国家」に⽣まれ変わったというより、戦前の軍国主義国家との近接性、連続性を感じさせる。
近年では、中国の「脅威」を⼝実に集団的⾃衛権の⾏使を容認し、軍事費の⻭⽌めを外すにとどまらず、敵基地先制攻撃さえ可能にしたが、実際には中国の軍事費の伸びはその経済成⻑に⾒合う範囲にとどまっている。⽇本もまた、⾼度成⻑期に「防衛費」の額⾯が⼤幅に増えたのと同じである。むしろ、⽇本の近年の軍備費倍増こそ、30 年以上も経済停滞が続く現状に釣り合わない軍事強国化路線となっている。少⼦⾼齢化が進み、経済のマイナス成⻑で平均所得さえ下落するなか、⺠衆は既に税や社会保障の重い負担に苦しんでいる。幻の「脅威」に対して⼀⽅的に⽇⽶軍事同盟を強化しても、⺠⽣福祉を弱体化させ、周辺国の不安を煽るばかりである。
抑⽌⼒ではない別のアプローチによる安全保障の可能性はないのか。政府が「平和国家」に逆⾏するなら、⺠間の草の根のレベルから平和国家を⾃ら作り出し、被侵略国との和解、友好を⽣み出そうという⺠間外交が、戦後早い時期に⽣まれていたことを想起したい。近年の⽇中友好運動は、担い⼿の⾼齢化や社会全体の右傾化の影響を受けて縮⼩し、萎縮さえしているのは確かだ。それでも、⺠衆⾃⾝がオルタナティブな平和を作り出そうと地道な取り組みを続ける⼈々もいる。その⼀⼈に、⼤阪で労働運動の最前線に⽴ち続ける⼭橋宏和⽒がいる。⼭橋⽒は「⽇中友好は最⾼の安全保障」だと主張する。労働運動から⽇中友好運動への連関性は⾒えにくいかもしれない。労働者の主体性を搾取し抑圧する勢⼒に対峙してきた同⽒は、その敵対⼿が共産圏を敵視し、中国との友好を阻害し続ける側でもある現実に直⾯した。「平和国家」の名に反する軍備拡張を推進しなければ、⽇本の⼤多数を占める労働者の⼈間らしい暮らしが実現する余地が⼗分に⽣まれる。しかも⽇⽶安保体制の⽭先は、主に幻の「脅威」である中国に向けられている。だからこそ、⺠衆や労働者の連帯が国境を越えた中国⼈⺠との連帯へと連なり、草の根から⽇中友好を先取りすることで、軍事的な⽇⽶安保体制を必要とする情況そのものを打ち消してしまうおうとしている。「⽇中友好は最⾼の安全保障」というスローガンは軍事的な次元にとどまらず、⼈々の主体性、独⽴性を焦点とする「⼈間の安全保障」にこそ本質を⾒出した先駆的な実践だった。
このような問題提起をすることは、政治的⽴場を越えて中国「脅威」論が渦巻く現在の⽇本社会では、空想論あるいは⾮現実的だとして⾮難さえ集めるだろう。しかし、“⽇中友好による安全保障”は、⽇中間の戦後処理を国家間の平和的共存に発展させようとした⽇中平和友好条約の精神そのものである。1970 年代の⽇本と中国は、侵略の過去を友好の未来に置き換えるという平和的な“知”を共有していたのである。この条約を基礎にすれば、⽇本の⺠衆に負担を強いる軍事⼒の強化は必要なく、中国はじめ周辺国にも歓迎される。「平和国家」のアイデンティティも葛藤なく維持でき、「防衛⼒」という名⽬での⾃衛隊の存在も⼀定程度は許容されるだろう。その延⻑で、⼀帯⼀路や BRICS に加われば、完全に⾏き詰まった⽇本経済の浮上のチャンスにもなりうる。平和と友好こそ現実的な安全保障なのである。
・・・・山橋のコメント 私たち大阪城狛犬会の活動をご紹介くださりありがとうございます。ただ「日中友好は最高の安全保障」という言葉は私たちの発明品ではありません。中国との交流にたずさわっている方の会話の中で自然に出てきた言葉です。中国と交流経験のあるほとんどの人は、中国ほど平和的な国はないと感じていると思います。 世界で一番経済発展を続けている中国にしてみれば、世界全体が大切な友人でありお客さんです。友人やお客さんと戦争をしていたのでは自国の産業そのものを破壊することになります。世界全体が平和で豊かになることが、自国の利益にもつながるというのが中国の考え方です。これは非常に理にかなった考え方だと思います。 そんな国に対して何で日本は身構えているのでしょう? 本当に不思議なことです。 今回オープンした「日中友好の広場」は、日本のどこかで日中友好交流を実践されている方たちや、「中国が大好き」という方たちが、交差しつながりあうことができる「公共の広場」になることをめざします。 それと私が「⼤阪で労働運動の最前線に⽴ち続ける」というのは全くの事実誤認です。本当に最前線で奮闘している団体や個人の方々に対して申し訳ないです。以上です。(2025年3月11日)