心に刻む日中不戦と祝園ミサイル弾薬庫

心に刻む日中不戦と祝園ミサイル弾薬庫 

                八木 健彦
1, 湖南省を旅して

 11月上旬に、日中の友好交流の1環として湖南省を5泊6日でめぐる旅をした。

 湖南省というのは長江中流域、洞庭湖の南に位置する。古くは楚の国と言われ、三国志では呉であった。

 湖南省は毛沢東の出身地である。省都長沙は地方都市というイメージを覆す大都会ぶりであり、その夜の若者の賑わいは目をみはらせるものであった。「一流の企業、一流の人材、一流の社会貢献」を掲げて華為と同年に、地元の人たちによって創立され、今やポンプ車やクレーン車等の機械類では世界有数の企業となった三一集団の三一重工の綺麗に整備された大工場の見学でも目を瞠らされた。

<し江受降記念館で考える日中関係>

 その中で日中戦争に関わる見聞があった。し(くさ冠に止)江市の受降記念館というのがそれである。要するに日本軍が中国政府に対して公式に投降の調印をした場所である。(8月21日)このことを私はその時に初めて知った。8・15はあくまで国内向け(「国民」向け)の終戦宣言であり、日米戦争の終戦は9月2日のミズーリ号の降伏調印であるが、では15年戦争と言われる日中戦争の終戦日はいつだったのだろう、という疑問があった。

 というか多くの日本人は敗戦をアメリカの物量(科学技術と生産力)への敗北に帰して、中国への敗北(中国人民の抗日闘争への敗北)を認めていないのではないか、この中国への敗戦の否認は明治の<脱亜入欧>以来の中国に対する優越意識と加害の否認と結びついており、今日の対米隷属意識と裏腹の反中嫌中意識に繋がっているのではないか、という思いを持ち続けてきた。

 戦後過程でみると、戦後の冷戦体制下でアメリカへの従属=日米安保の国体化ー天皇制延命と反共防波堤(というより中国革命をはじめとするアジアの民族解放革命に対する防波堤)によってアジアの民衆に目を閉ざし、背を向けて加害戦争責任をすりぬけ、50年代後半からはそういう安保体制の基盤の上にひたすら高度成長とアメリカナイゼーションの道をひた走ってきた。それは60年安保敗北後に加速された。かっての<脱亜入欧>を今度は<脱亜入米>としてやり直したのだ。そういう経済大国・技術立国こそ日本の近代化の精華として、アジアでの盟主的地位と意識、対中国での優越感となってきた。80~90年代の中国進出ラッシュも、一面では無賠償へ見返りとして中国近代化への協力という面がありつつも、こういう優越意識と表裏一体であった。

 アメリカのベトナム戦敗北と日中平和友好志向が強まった一時期が、新自由主義グロバリゼーションと冷戦体制崩壊後の新たな日米同盟運命共同体にとって変わられて行く中で、日中のGDP逆転、技術上の地位逆転、イノベーション落差、日本の停滞と貧困累積が鮮明になるにつれ、優越意識は妬みと怨み節に転じて、反中嫌中意識に結果している。その分対米隷従を深めている。

 かって30年代の日中戦争にさいして国民的スローガンとして「暴支膺懲」(横暴な中国を懲らしめる)が新聞紙上で躍ったという。そういう「熱狂」の下に、中国侵略のために国家総動員態勢までつくられていった。現在の中国を巡る日本のメディアや言論状況をみると、新たな「暴支膺懲」の時代を危惧させる。戦争態勢づくりはそういうことと一体なのだ。そういう危うい状況だからこそ日中平和友好を掲げ、平和友好条約の堅持を掲げる意義がある。日中関係を「相互尊重や、協力共栄、東アジア平和共同体構築」へと変えていくのは、日本の歴史的決算をかけた事業だと言いうる。

<帰国後に続くし江での体験>

 その意味でこのし江受降記念館で降伏調印の現場をしっかりと見定めたことは大いなる経験であった。こういう受降式は中国全体で16か所で行われたとのことであり、その中心がし江であったそうだ。(台湾では10月25日であった。)し江は湖南省の西方にあり、重慶への入口にあたる。ここが中心地であったのは、当時日本軍の中国戦線司令部がし江にあり、4~6月に”し江大作戦”という攻撃戦をおこなって日本軍・中国軍各10万の兵が対戦し、日本軍が惨敗したからである。受降記念館館長の説明を聞きながらそういうことを考えていた私は、説明を聞き終えたあと館長に思わず、「奈良で12月13日に心に刻む日中不戦の集いを行います、そこで伝えます」と言っていた。

 それを聞いてガイドの呉さんが、いろいろ教えてくれた。湖南省では7年間の間に日本の侵略戦争での死者90万人が出たこと、洞庭湖の北辺の半島・廠こう(穴の下に告)に避難民らが数万人程がひしめいているところを爆撃し、無差別殺害し、たくさんの死者(3万人)が出たこと、また常徳市でペスト菌を使った細菌戦をおこない、ペストでの死者が出たこと、長沙の大火の悲劇など、そしてまた抗日戦で新四軍が湖南省で戦ったこと、等を話してくれた。(北方の八路軍は大半の日本人に知られているが、ずっと後に組織された新四軍は殆ど知られていない。が、陳毅の名を知る人は多いだろう。)

 帰国後、この洞庭湖の廠こう半島の惨事を調べようとネット検索していると「日中戦争への旅◎加害の歴史・被害の歴史」(宮内洋子)という本に出会い、購入した。読んでいると彼女たちが廠こうを訪問した時のガイドがなんと呉さんだったのだ。彼と再び本の中で出会うとは!(彼には個人的にも本当に世話になり、いろいろ教えられた。彼の明るくてユーモアがあり、前向きで、ひたむきな生き方に感銘を覚えた。生涯忘れることはない。日中不再戦を改めて誓う。)

2, 安保3文書をめぐって

 一昨年の12月に、「日中不再戦を心に刻む集い」に参加した折、図書情報館の職員の方から、陸軍38連隊(奈良連隊)が「満州事変」後、中国大陸を南北に縦断するように転戦してまわり、その過程で南京大虐殺戦に主力軍の一翼として参戦したと、衝撃的な話をうかがった。そして奈良こそ日中不再戦を心に刻まねば、と思っていたその3日後に安保3文書の閣議決定が報道された。それはまずもって中国を敵国と規定し(表現は少し違っていたかも)、アメリカの中国包囲網に積極的に参画し、米軍主導下に日米軍事一体化を進め、”矛”としての役割を果たす、そのために軍事費を2倍化し、敵基地攻撃能力を保有し、専守防衛から大転換して攻撃的な戦争態勢を築くというものだった。またその基盤のために軍需産業を国家的に育成するというものだった。まさにいきなり銃口を突き付けられたような思いであった。

 この前段では米軍から盛んに台湾有事・27年危機説がとくに日本向け情報戦として流され、「台湾有事は日本有事」という安倍発言があり、岸田訪米ーバイデンとの会談があり、アメリカの力に依拠して憲法を覆す大転換が閣議決定でなされたことは一種のクーデターと言いうるものだろう。 

 沖縄・南西諸島を対中国軍事対決の最前線としてミサイル要塞化し、この南西諸島~九州を前線とし、列島全体を後方支援として全土の戦争態勢化をもくろんだそれは、早速23年度予算編成に具体化された。現代の戦争はミサイル戦争であり、ミサイルの打ち合いではミサイル補給が継戦能力の生命線であり、その命綱がミサイル弾薬庫である。それゆえ32年までに全国130か所にミサイル弾薬庫建設を打ち出し、手始めに5か所をリストアップした。その一つが祝園分屯地であった。

●祝園ミサイル弾薬庫問題については、ほうそのネットのパンフレットをご参照下さい。一言だけ言っておけば、当初単体の弾薬庫としては過去最大といわれた102億円は、造成工事&設計費であり、本体工事には新年度予算で192億円が上積みされる。新年度には軍事予算として8.5兆円が計上されている。*

  *なおそれは年明けには、6棟追加の計14棟、198億円と発表された。」

3,米・日の対中国軍事戦略

 2021年に作成された対中国の日米作戦共同計画は、琉球弧の島々からの日米軍の攻撃によって東シナ海〜台湾海峡から中国艦艇を排除し、その内側=中国沿海地域で米空母の展開などで行動の自由を獲得して、中国を海上から封鎖する企てを明らかにした。そのために日米NATOによる中国軍事包囲網構築としての共同軍事演習を繰り返し行い、先日のキーンソード25は米軍主導下に、日・韓・豪・カ・英・仏・蘭らが加わった、全国を覆いつくすような戦争演習であった。米日韓とそれに隣接する米日比の対中国軍事同盟化。

 戦争態勢は沖縄の空港・港湾軍用化と拡張整備、半ば強制的な島民の島外避難、九州の対中国前線化、西日本全域の前線支援=ミサイル態勢化etc、沖縄から進行した事態が九州〜西日本〜全国をとらえ広がっていく。

 さらには、陸海空自衛隊の統合司令部設立、在日米軍司令部の格上げ(アジア太平洋軍司令部に匹敵)と都心赤坂への移転、日米統合司令部形成と米軍一元指揮体制、南西諸島ミサイル要塞の米日共用化、そして米日韓による東シナ海での軍事対峙に加えて、米日比による南シナ海での軍事対峙という二正面作戦を米軍は発表した。

 沖縄への長射程ミサイル配備の計画は、東シナ海~台湾海峡のみならず、南シナ海~バシー海峡、台湾海峡をも見すえたものとなるのだろうか。そしてこの1000kmをこえる長射程ミサイルは祝園弾薬庫の中心的保管物となる。

 今春発表された内容では、呉の複合軍事拠点化によっていったん、呉に集中されて、それを海自によって沖縄に海上輸送して持ち込まれるということである。こうして祝園は呉を介して沖縄と直結され、対中国軍事対決の起点としての位置を与えられる。

4,ほうそのネットの設立と運動の拡大、沖縄ー西日本連帯ネットワークへ

 こういう祝園ミサイル弾薬庫問題の急激な展開に対して、地元精華町以上に、隣接地域(京田辺、奈良、生駒、枚方、交野、宇治等のけいはんなエリア)が強く反応した。何回もの準備会合を経て3月20日に200名参加で結成され、対町対防衛局申し入れ行動から住民説明会開催要求の1万人署名運動を繰り広げ、精華町内や周辺での数々の地域で町内会レベルから幾多の小学習会を開催し、5月の大学習会(300名)ー8月の大学習会(550名)、そして300名のピースパレードと駆け抜けてきた。そして地元中の地元、精華町での地を這うような草の根からの活動の蓄積で、11月にほうそのネット・精華の会が結成された。ほうそのネットのへそともいうべきものだ。

 沖縄諸島を覆う戦雲は西日本全域に漂い、島々を戦場にしない、は人々の共感を生みながら、次々と自分たちの街を戦場にしない、全国を戦場にしない、と広がろうとしている。昨年11・23島々を戦場にしない県民大集会後の全国交流集会から始まった全国化への模索は今年の8月沖縄での交流集会、9月21・22日呉での西日本連帯行動、11・30~12・1大分行動、そして来年2月に予定される鹿児島行動ー2・22沖縄ー西日本連帯ネットワーク結成集会と、着実に全国運動へと成長しつつある。国際連帯も、韓国・台湾・フィリピンの人たちとの連携が志向されている。戦争態勢に対峙する全国的運動の成長と国際的連帯の形成。

<運動の歴史的位相> 

 かって50年代中~後半期、沖縄では島ぐるみ闘争ー反プライス勧告の闘いが広がり、「本土」でも基地返還運動が大きく盛り上がった。そして沖縄からも参加した「全国軍事基地反対連絡会議」の結成、都心での沖縄問題総決起大会、プライス勧告絶対反対、軍事基地化される沖縄を救え!の砂川からの檄・・・。沖縄+本土の核攻撃基地化、それを阻止するための安保体制の解消、という考えが本土の反基地運動と沖縄の運動をつなぐ一つの環となった。

 しかしアメリカは沖縄ではプライス勧告による強行的弾圧で臨む他方、「本土」で始まった高度成長に目をつけ、アメリカのアジア支配と反共陣営の経済拠点とするために基地返還に応じ、基地を沖縄に移転集中し、沖縄を犠牲的基底とする安保体制を築いた。60年安保闘争はそういう分断の克服を課題としえないまま、60年安保後はその下で「本土」は高度成長とアメリナイゼ-ションに突き進み(アメリカの内面化・主体化)、この構造を徹底化した。(基地による沖縄蹂躙ーアジア支配と沖縄の構造的差別。)

 現在は中国やグローバルサウスの台頭によってアメリカ1極覇権体制が瓦解しつつある。近代500年の入植者植民地主義とレイシズムを基底とした欧米中心主義(「文明的欧米が野蛮な欧米以外の諸地域を文明化する )、その頂点としてのアメリカ1極覇権主義の瓦解。それを食い止めようとした同盟国の総動員、軍事・経済・技術・情報etcの総動員=拡大統合抑止戦略も、アメリカーイスラエル同盟の世界的失陥によって綻び、それを縫って多極化世界が出現しつつあり、新自由主義グローバリズムも行き詰まり、停滞が世界を覆う。非同盟・多国間協調が世界の主流となりうる。だからアメリカでもなりふり構わずアメリカの利益第1を露骨に押し出すトランプ政権となった。そういう世界の流れの中で、沖縄の島々の運動が全国に共感を広げ、ノーモア日中戦争、命どぅ宝、東アジアの平和と共生、その結び目としての沖縄を浮かび上がらせる。そういう可能性を秘めた琉球弧諸島~九州~本州へと連なっていく全国的な住民の連携が必要であり、また可能だ。 

 ここにこそ戦争への流れを平和への道筋に転換させていく力がある。 

 そのような展望を持って、それをひきよせていくために、深く地域住民の中に浸透し、町内会レベルから住民の声と動きを呼び起こし、自治会や老人会や文化遺産に関わる歴史サークルや文化サークル、宗教界等、様々な分野で様々な人々の間で話題にされ、議論される状態をつくりだしていきたい。

 かって中国侵略戦争へ出征する陸軍38連隊(奈良連隊)の兵士の見送りに殺到した奈良市民の姿、それを絶対に繰り返さず、逆にノーモア日中戦争!STOP‼祝園ミサイル弾薬庫!の草の根から湧き起こる声に変えられねばならない。